扉の向こうに気配を感じた。
背中に刺さった十字架は
抜けもせず、貫きもせず
一番苦しいところで
嘲うように
君は遠くで手の甲には
視界が紅く染まっていく
扉の向こうに気配を感じた。
ルックは気付いて、けれど何も云わずに。
何かの音が鳴るのをただ待っていた。
もしかしたら鳴らない事を願っていたのかもしれない。
辺りはしんと、闇を飲み込んだままで。
ランタンの仄かな光だけが部屋の中を異空間にしている。
昼間見る部屋とは違う。光に当てられて浮かぶ調度品。
ぐらりと視界が回った。
扉前の気配は音も鳴らさず、けれど立ち去る様子もない。
外界は月も見えずただ囲むくらいに沢山の星だけが見える。
ルックは迷った挙句扉の方へそろそろと近づいた。
そして手を当てる。
ヒヤリと感触が背筋まで届いた。
向こうの気配はそれでも消えてくれない。
彼を出迎えることは容易でも続く言葉は何があるのだろう。
彼も向こうで、もしかしたら手を同じように扉にあてて。
それは何て滑稽なのだろうと思った。
軋んだ短い音を微かに鳴らせて扉が薄く開いた。
開けたのはルックの方だった。
このままいても仕方ないと思ったのだ。
けれどもしかしたらそれは何らかの報復。
いや、そうではなく嗜虐性とでもいうものだろうか。
扉の向こうも闇の延長だった。
彼は素足で、赤い服に裏表で色の違うバンダナ。
手袋は外されて紋章は露になっていた。
「何?」
短くそれだけを訊いた。
用件が特にないことは知っていたのだけれど。
すう、と彼は右手を持ち上げた。
緩慢だけれどそれはいやに速くてルックは目で追うしか出来なかった。
指が首筋をなぞって。喉笛を押された。
ひゅう、と風の音がした。
それでもギリ、と力を込められてルックは顔をしかめた。
言葉は喉で止まる。息は流れてくれない。
すべては彼の手で止められている。
体の流れがそこから逆流して胃の中に汚濁が溜まる。
圧迫されている躯の中。
嗜虐性を目に光らせていたのはむしろ彼の方だった。
「随分待ったよ」
にこりと笑ってようやく彼は手を離した。
それでも喉の圧迫感は暫く消えはしなかった。
ほの暗かった部屋に灯りが一つ加わった。
「相変わらず何もない部屋だね」
「君の部屋も似たようなものだろ」
「生活感がないよ」
夜中の不意の客の、その遠まわしな言葉に柄にもなくルックは苛苛して。
「煩いな」
思い切り振り返った。
ら。
頬に何かが掠めていった。
風のように速くて、彼の腕のように緩慢で。
冷たい、人工的な鋭利なそれは。
彼の手の中で光った。
先が何かで朱かった。
「何・・・?」
たらりと頬を何かが流れる。
ぱたりと床に雫が落ちた。
「さあ、何だろう?」
彼は笑顔だ。それを先程から絶やすことなく。
それでもその目は笑っていない。
いや笑っているのではなく、むしろ嘲っているのだろうか。
部屋中に糸が張り巡らされて。
少しでも触れてしまったら体中が切り刻まれてしまうような。
肉片の欠片になってしまうような。
彼が一歩近づいた。
ゆわりと腕が緩慢に、それでも速く持ち上がる。
触れるか触れないかのギリギリで彼の指先が首筋を流れた。
ぞわりとつま先から何かが這い上がってくる。
蟲が上ってくる。
胃の中が萎縮して先程回って滞っていた汚物が喉元に込み上げた。
口の中に据えた味が広がって不快感が体を巡る。
血液は泥濁してなんて汚れているのだろう。
彼の闇が躯に入り込んでくる。
意思を剥ぎ取られていく。
「君は何て綺麗なんだろうね」
彼はそう云って可笑しそうに笑った。
そしてまた足が床を擦る。
ルックは後じさることも出来ず。
足が震える。
糸はすぐそこで掛かるのを待っている。
額から流れた汗が傷口に染みた。
喉に彼の手の中のものがあてられた。
鋭利で冷たい感触のそれにまた蟲が上ってくるのを感じた。
「僕みたいに・・・・・・汚れてよ」
喉が熱くなった。
息がそこで止まるようだった。
言葉は出て来ることを止めたように。流れない。
堰き止められた水。
喋ることを忘れた。捕らえられた蝶。
彼の唇が喉に触れた。
その中で舌が動いて、ひくりと喉が鳴った。
「ずるいよね。僕ばっかり・・・僕だけ汚れるなんてさ」
手を取られた。
そしてその中に彼が持っていたものを握らされて。
金属的な冷たさに、掌から熱が奪われた。
却ってそれを握りこんでしまう。
「ほら、ここだよ。ここに」
誘導するように腕を引かれ、その切っ先は彼の右手甲に当てられた。
紋章が鈍く光った、ように見えた。
頭の中の命令とは裏腹に手がぎりと力を込めた。
彼の手の甲からぷくり、と赤い液体が盛り上がった。
それは量を増し筋を作って滴り落ちる。
床にまた溜まりが出来た。
思考なんてあてにならないと、ルックは微かにそう思った。
今自分を動かしているのは完璧に彼だ。
体の中の汚れた血は完全に頭をおかしくしている。
全てが重く、停滞して、上手く流れてくれない。
こうなると今までどうやっていたのかさえも解らなくなる。
澱が足に溜まっていく。鉛のようだ。
ぐらりと視界が揺れた。
「ずるいよね・・・・・・」
泣いているように見えた。
いや、けれど彼が泣くわけはない。
彼は泣けないのだから。
自らの手で自らの愛しい人を殺めて、そして泣くことは贖罪にはならない。
それはむしろ冒涜に近い。
彼に泣く資格がないことを一番知っているのは彼だから。
そしてそれは彼の戒めでもある。自らに課せた鎖。
「死にたいなら殺してあげるよ」
ルックの唇から当然のように言葉が漏れた。
その音のそらぞらしさにルック自身が震えた。
彼は項垂れていた顔を上げて、その目に色が付いた。
「あ・・・あ・・・あああああ」
喉の奥から絞るように声をほとばらせて、彼はルックの手中のものを奪い取った。
ガリ、と彼の爪がルックの手を擦っていった。
「ああああああ」
ナイフの先は彼の右手甲を目掛けて。
それはとても速くて、けれどルックにはいやに緩慢に見えた。
だから。
だから?
思考はどこかに飛んでいる。
ならそれは本能だったのだろうか。
手が。
血が舞った。
自分の体液が飛んだ。
「カガリ・・・・・・」
手の甲に穴が空いた。
すっぱりと綺麗にそれは収まったらしい。
手を伸ばして彼の頬に触れたら、液体が線を作って肘まで流れて落ちた。
「本当に穢れてるのは・・・僕だ」
泣いていたのかもしれない。
ただ視界が真っ赤で何も解らなかった。
「ぼく・・・なんだよ」
君の全てを見ない振りして。
君の苦しみが解るような振りして。
欺瞞だらけだ。なんにも解ってなんかいない。
君の抱える大きさも、痛みも、わかった振りして頭をなでてあげて。
君が何にも知らないように。目隠しをして。綺麗な所だけ見せて。
けれど解れた先から零れていたものは君に届いていたんだ
それに君は気付いていたんだね。
「るっく?」
声が聞こえた。
唇に何かが触れた。
うつろかに濡れて、柔らかくて。
離し難いそれ。
夜なのに小鳥の声が聞こえた。
全部夢ならいいのに。
誰か起こしに来てよ。
視界が
赤いんだ。
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