差し出した手を取ってくれたのは誰だっただろう。
いや、それ以前に。
誰かが取ってくれたという事実が存在しているのか。
その原点すらもう謎になってしまっている。
宛てもなく伸ばしたこの手を。
一体誰が取ってくれるのだろう。
通り過ぎる人が多いこの自分の時間の中で。
気づいて足を止めてこちらに向き合ってくれる人は存在するのだろうか。
差し出したこの手を。
取ってくれる人は・・・・・・・。
風が大きな音を立てて砂塵を巻き散らした。
頭からすっぽりと被ったマントがバサバサと音を立てる。
捲れあがった布の端から、その少年の瞳が少しだけ掠めて見えた。
朱い色だった。
燃えるような、静かの中に抑えようとしても零れて見えるそんな朱。
けれど表面はあまりにも透明で冷めているように見えた。
少年は、は、と捲くりあがった布を掴んで顔元に寄せた。
それは人から見られることを嫌がっているような仕草だ。
少年はまたマントが風に攫われないようにしっかりと布を握った。
そして砂の上に足跡を残していく。
少年は独りだった。
いや、生まれたときから独りだった訳ではない。
何年か前までは父が肉親としており、家庭は裕福でそれは絵に書いたような幸せであった。
多忙な父にその当時は幸せを見出せない事があったが、今思えばそれは、確かに幸せだったのだ。
けれど。
今はもうその父はいない。
自らの手で殺したのだ。
最後を看取ったのは自分とそして幾人かの知り合いだった。
いや、知り合いというのは語弊があるか。
皆、自分の家で共に暮らす父の弟子や、あの今はもうない国の親衛隊だった者だ。
自らの手で父を殺した。
今でも時折夢でその光景を目にする事がある。
戒めのように。
忘れてはいけないと。
そして目がさめた後、決まってこの両の手を見るのだ。
そこにはまるで今まさに留めを刺したかのような感触と赤い血糊が残るのだ。
全てがあの残像だと解っていても思わず口から慟哭がほとばしる。
まるでそれは獣の声のような。
この世ではないものの叫びに聞こえた。
幻覚が見得る。
ざあとまた砂塵が少年を包んでいった。
少年が歩を向ける先には何故か争いが起こる。
自らがリーダーとなって戦った3年後、ふと尋ねた国でも戦が起こった。
自分は本当に、ただその国の忘れられたような片隅の街で隠れるように日々を流していただけなのに。
小さな湖の辺で、糸を垂れてただ。
ただ、雲の流れる様を限りなく透明な目で見ていただけなのに。
差し出された手は、昔の自分と同じだった。
あまりにも哀しい、人の願望だけを吸い込んだ手。
そして大きすぎる、ヒトが持つべきではない力に巣食われた手。
それでも彼はにこりと笑って。
あの時の自分には出来ない事をあっさりとした彼にある意味尊敬の念を覚えた。
その後。
またこの手はヒトの血を吸い取った。
呪われた手。
ヒトを殺める手。
誰にもけして触れられない手。
触れて欲しくない手。
それでも。
それでも。
どうしてだろう。
伸ばした手を取って欲しいと願うのは。
どうしてだろう。
砂が目の前を舞った。
砂塵は掠めるように視界を悪くして、遠く飛んでいく。
バサバサと大きな音を上げて、頭からすっぽりと被ったマントが煽られていく。
何故だか嫌に笑えて、唇の端を持ち上げた。
所詮自分は死神だ。
赤い他人の血を浴びて、黒光りする鎌を持った死神でしかないのだ。
誰しもが自分のこの手を見てそう思うだろう。
そして、誰もがこの瞳の奥を見ようとはしないだろう。
受け入れた運命だ。
全て解ってやった事だ。
こうなる事も。独りになってしまうことも。
もう泣く事すらも贖罪にならないことも。
ふと、手の甲を撫でてみた。
紋章は鈍く光ってまるで、まるで還れない自分を笑うかのようだった。
ああ。
どうして彼は太陽のように笑う事など出来たのだろうか。
この紋章を纏って、忌むべきものとして見られて何故。
そうやって乾いた晴れた日のように笑う事が出来たのだろうか。
そして自分が。
あの、彼のように笑うまで。
笑えるまで一体どれだけの時間が要されるのだろうか。
気が遠くなりそうなほどの先に目の前がくらい、と歪んだ。
その前に。
誰かが、この手を取ってくれるというのだろうか。
ざあ、と砂塵が舞った。
霞んだ視界。
鼻の先すらも見えない。
ふいに試すかのように、彼はその腕を持ち上げた。
すい、と、手を差し出してみる。
そこに誰もいないと知っていたけれど。
けして誰もこの手を取ってくれないと知ってはいたけれど。
それは叶えられない願いを試すかのようだった。
あまりにも哀しい願いだった。
けれど。
「探しましたよ。坊ちゃん」
バサリと大きな音を立てて、マントが風に飛んだ。
いやに視界が開けて、思わず目を見開く。
金色の甘い甘い髪が、さらりと視界を過ぎった。
差し出したままの手のひらが、暖かい感触に包まれた。
久しぶりに感じる体温が抑えても体を駆け巡る。
砂が去って、にこりと笑んだ彼の顔に思わず涙が出た。
「グレミオ・・・・・・」
懐かしい言葉を口にした。
懐かしい名前を口にした。
鎌を下ろしたくなくて去ったあの幸せだった家の下男。
そして、小さい頃よりずっとともにいたもの。
名前を口にすることはなくてもずっと心に浮かべていた甘い笑顔。
彼はとても優しくて、穏やかな日向の匂いがした。
その彼が今目の前にいた。
「ど・・・!どうしたんですか!?坊ちゃん。お腹でも痛いんですか!?」
「グレミオ!」
砂を蹴った。
何かが溶けた気がした。
気づいたら彼の匂いを感じていた。
乾いた砂漠でも衰える事の無い日向。
手を取ってくれる人はいたのだ。
今、この瞬間だけでもその形は存在しているのだ。
乾いたこの手を。
呪われていくこの手を。
それでも変わりなく包んでくれる存在が明瞭と今ここにいるのだ。
暖かい手をしっかりと握った。
いつか儚く消えてしまう前に。
全てを覚えておくように。
霞んでいく視界の向こうで、ゆうるりと彼が笑むのが解った。
こころが繋がる気がした。
「いつでも坊ちゃんの先にグレミオはおりますよ」
言葉が跳ねる。
なんてそれはうつくしい言葉。
彼の手があるなら自分はきっと目隠しでも歩いて行ける。
差し出した手の向こう。
差し出した手の行く先。
それはいつでも彼のいる場所。
それはいつでも彼の触れ得る場所。
「砂がキツいでしょう。坊ちゃんどうぞ、グレミオのマントにお入り下さい」
碧が鮮やかに舞って、くるりと包まれた。
暖かい、日向の匂いだ。
懐かしいむかしに還って行くような匂いだ。
額に唇が落とされた。
敬愛の刻印。
ずっとずっと消えることの無い証。
ああきっと。
差し出した手を取ってくれる人がいなくなったとき。
きっとその時自分もいなくなるだろう。
この手が行く先をなくしたとき。
この体も行く先をなくしてしまうのだろう。
「で、どちらに向かわれるのですか?」
「グラスランドに行こうと思ってるんだ」
「ああ、例の件ですか?」
「そう。まったくあのバカが・・・・・・」
砂の上に足跡が二つずつ。
キレイに並んで遠ざかった行った。
その後を流されてきた砂塵が跡形も無く消して行く。
けれどもう。
寂しくはなかった。
視界の先が砂塵に塗れて鼻の先すらも見えなくなっても。
今手を差し出せば。
それをとってくれる人がいるから。
まだ。
先に進む事が出来る。
消えていく。
足跡。
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