My name is?

 好きな人が呼んでくれる自分の名前は
 誰が呼んでくれるものとも違う
 それは甘い響きで
 それは愛おしい音で
 僕を魅了する
 君の声で
 君の音で
 僕の名前を
 呼んで


「ねぇ、ルック」
「何?」
 ふかふかの布団に転がって、マユキはルックの名前を呼んだ。
 けれどルックの視線は読んでいる本の活字をなぞったまま。
 声だけが感情もなくマユキの耳に届く。
 その態度にぷぅと膨れて、マユキは寝返りを打った。
 派手な動きにギシリとベッドが鳴いた。
 天井を見上げたら前髪がバサリと重力に沿って落ちた。
「ルックってば」
「何?」
 再度読んでみても返ってくるのは同じ言葉。同じ音。
 その視線の先は活字。
 少し古びた白い紙の、マユキには読めない異国の文字。

 あまり学のないマユキにとって、こういうルックは尊敬に値する。
 今まで頭脳よりも腕で戦場を乗り切って来たからマユキにとって戦法なんてからきしだ。
 それでもリーダーたるもの戦術も覚えねばとシュウに沢山の指南書を貰ったけれど、読むだけ読んでも一向に頭に入らない。
 頭を使って戦うのも確かに大切だと思うけれども、究極の時に頼りになるのはやはり腕だと思ってしまうからだ。
 サシでの勝負のとき頼りになるのは、今まで培ってきた戦いの経験とか勘だ。
 だからといって勉強が嫌いな訳ではない。
 知識を得ることや、知らない事を理解出来るという事はすばらしいと思う。
 けれどやはり体を動かしている方が好きなのだ。
 だから、ルックのように何の苦もなく本を読み、それを覚え、実践で生かす事が出来る人はすごいと思う。
 いや、マユキだって本を読む事は嫌いではないのだが。
(内容にもよるんだよね…)
 マユキは煤けた天井を見て、息を吐いた。
 そしてあまりにも自分が戦術を読まないからなのか、それともただ単に部屋にあったのを暇つぶしに読んだのか。
 シュウに貰った指南書をルックは全部読んで覚えてしまった。
 地形による軍列の組み方、攻められたときの回転の仕方、効果的な攻め方等。
 それを面倒そうに噛み砕いて解りやすく教えてくれたのはルックだった。
 だからマユキは本を読んでいるルックは好きだし、何かを訊けば必ず答えを出してくれる正確さも好きだった。
 けれど。
 マユキはちらりとルックを見やってまた、息を吐いた。

「ルック」
「何?」
 声音は先ほどと一緒。
 これだけ呼べば一度くらいこちらを向いてくれても良いだろうに、それでもルックの視線は本から外れない。
 けれどこれだけ呼んでも声音が変わらないのはそれがマユキだからだろうか。
 他の者ならきっと最初の一声で、切り裂かれているに違いない。
 ルックは自分の行動を他人に邪魔されるのが嫌いなのだ。
 けれどマユキにとってルックは怖くも何ともない。
 彼に持てるのはただ、愛おしいという感情だけ。
 だからこんな行動だって出来るのだ。
 マユキはまたぷぅとむくれて、ルックの手から本を奪い取った。
「あ」
 眉間に皺を寄せてようやくルックがこちらを向く。
「何するのさ」
「だってルックってば本ばっかり読んでるんだもん」
「僕がどこで何時本を読もうが、君には関係ないだろ」
「あるよ。せっかく一緒にいるんだから僕の相手してくれたっていいでしょ」
「…君は一体幾つの子供だよ」
 呆れたようにルックは息をつき、マユキの手の中からお目当てを救い出した。
 そしてまた活字にのめりこもうとする。
 けれどマユキはまたもやそれを奪い取って、
「ルック、僕の名前ちゃんと知ってる!?」
 一瞬だけ、何か空白が通り過ぎた。

「いきなり何の話?」
 本を奪い返すのは諦めたのか、もう冷めたであろう紅茶を薄く口に含んだ。
 マユキの質問には答えずに。
 だから尚更マユキは頬を脹らませて。
「ルックってば僕の事”君”でしか呼ばないんだもん。僕の名前ちゃんと知ってる!?」
「…君、僕を馬鹿だと思っているのか?」
「ああー、もうまた君って呼んだ」
 頭が痛くなりそうだ。
 ルックはふうと息を吐いた。
「そんな事どうだっていいだろ」
「良くないよ。僕にはちゃんと名前があるんだから、君とかお前とかそんな一括りの呼び方で呼んで欲しくない」
「けれど僕にはどうでも良いことだよ」
 一生懸命演説したマユキの言葉はあっさりと蹴飛ばされた。
 どうでもいいことだと言われてしまっては返す言葉もない。
 所詮自分の名前なんて、呼ぶに値すらしないのか。
 ルックは自分の事を好きだから一緒に居てくれるのかと思っていたのに。
 それも今の一瞬で嘘に思えてくる。
 自分はどうでも良い存在だったのか。
 彼にとって他の、この城にいる人々と何ら変わりのない存在だったのか。
 マユキはなんだか真っ暗で悲しくなってベッドの中に潜り込んだ。
 奪い取った本をルックが持っていった気配がする。
 やっぱり、自分より本の方が良いのだ。
 自分とは別に一緒に居なくても良いのだ。
 急下降してしまった気持ちは止まることなく落ちてゆく。底を目指して。
 涙が出てきた。


 先ほどまでわあわあと煩かったものが静かになって、また沈黙が部屋を満たした。
 とっぷりと波も立たないような夜の水に浸っているような気分だ。
 騒いでいた彼は布団に包まって出てくる気配はない。
 いやそれ以前に、微かに動く様子もない。
 ルックはぱたりと本を閉じて彼を見遣った。
「寝たの?」
 水面に、ぽたりとしずくを落とした。
 波紋は広がっても返ってくる言葉はない。
 ルックは再び息を吐くと、そちらへそっと近づいた。
 定期的な音がする。
 やはり、そうか。
 合点がいったようにそろりと布団をめくると、案の定彼は眠ってしまっていた。
「馬鹿だね、マユキ。僕が君の名前を忘れている訳ないのに」
 そう云ってルックはマユキの額に唇を落とす。
 おやすみなさいの言葉の代わりに。

 ルックにとってその名前はあまりにも崇高で愛しくて。
 だから気安く呼べないのだ。
 穢れたこの身が彼に侵食しないように。
 名前を呼んで錆れてゆかないように。
 君が、ずっと君のままきれいでいられますように。
 とても愛しくて大事な名前だから、大事な時にだけ呼ぶのだ。
 けれどマユキはふっと目を開いて。
 うれしそうに少しだけ笑った。
 そしてころりと寝返りを打った。
 それはもうルックが自室に戻った後だった。

 好きな人が呼んでくれる自分の名前。
 それだけでその音が好きになれる。
 それだけで自分が 好きになれる。


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