9999 キャンドル 渚様

 怖い物がある。

 コン、と軽くドアが鳴った。
 ふいの来客の音。
 ルックは手にしていた本をベッドの上に置き、扉を見やる。
 無音な空気の流れ。
 それに便乗するように特に何の反応も見せずただじっとしていた。
 窓の外は綺麗な月が出ている。
 こんな時間の訪問者は普通歓迎されるべきじゃない。
 だからルックは相手の出方を待つように。
 本当にただ、扉を挟んで彼と向き合った。
 もうその向こうの影の正体なんて解っていた。

 チリチリと時間が過ぎていく。
 開いた窓から吹き込む風は何度カーテンを揺らめかしただろうか。
 音のない部屋。
 動かない形。
 部屋が奇妙な形に歪んでいくような錯覚を覚えた。
 ルックはざわりとした体内に嘘を吐くように。
 傍らの燭台の灯りを灯した。
 何故かそれを持つ手が震えた。
「いい加減にしたら?」
 思っていたよりも容易くその扉を開く事が出来た事に自分が驚いた。
 何を怖がっていたのか。
 いや、怖がっていたのではなく、もしかしたら。
 もしかしたら何かを試していたのかもしれない。

 開いた扉の向こう。
 その姿はまるで先ほどの自分のようで嫌に笑えた。
 一枚隔てた見えない向こうは対称の形。
 冗談にでも通い合ってると言えるなら良かったのかもしれないが、生憎そこまで余裕は持ててなかったから。
「あ。起きてたんだ」
 自分が吐いた毒の形をそのまま受け止めても笑える彼にむしろ敬意さえ覚える。
 いや、もしかしたらもう転んでいるのかもしれないが。
「仕方ないね、君は」
「どういう意味だよ」
「いいから入りなよ」
「うん」
 扉を閉める前にルックは先ほどまで彼がいた所を見やる。
 そこは蹲るような、なんて闇。
 普段は夜でさえ灯っている筈の廊下の火は彼が通った後必ず消える。
 月が出ているせいで幾らかの救いはあるものの纏わりつくような闇は彼にどんな思考を与えるのだろうか。
「何か用?」
 ふうと息を付いて燭台をなるたけ彼より遠くに置く。
 彼に吹かれた火は必ず消えるから。
「ううん、別に用は・・・・・・・・・ないんだ」
「君が一人で歩いていけるなら別に止めはしないけどね」
 それが出来ないのを知っているから彼はここに来る。
 いやそれは、もしかしたらただの思い込みなのかもしれないが。

 少しでも楽しかったと言えるものの後には必ず哀しみがある。
 それを知っててここまで来た。
 明日にでもあの城は陥落する。
 そしてその後に残る物は?

「ねえ、僕はルックの中でずっと生きて行ける?」
 蝋燭の火がふわりと揺れた。
 消えてしまう前兆のように。
「何を?」
「思い出なんていらないんだ。ただ、ルックの中だけで生きていたい」
 ざわりと胸の中で風が吹いた。
 遠くにあった筈の火はそのまま消えて辺りは月光りだけの闇になった。
「消えちゃったね」
 全てを知って苦く笑う。
 どうして火が消えてしまうのかを知っていて彼は笑う。
 それは未来の形。
 明日の姿。
 消えてしまう命の影。

「僕は・・・・・・」
「ん?」
 何故だか泣きそうになっている自分に驚いた。
 それを汲み取ってくれたのか彼の腕が背中に回されてゆっくりと撫でられる。
 とても気持ちのいい場所。
 心地の良い唄のような。
「火を消さないようにするだけだよ」
「そっか」

 どうして君はそんなに強いのだろうか。
 そして、どうしてこんなに儚いのか。
 もしかしたらもっと彼を救えるような言葉があったのかもしれないが。
 これだけが精一杯で。
 それだけの自分がとても滑稽だった。
 紋章の力は計り知れないが彼に対してはいつでも素の自分でありたいと願う。
 そしてそうすると自分があまりに無力である事を想い知らされるのだ。
 彼のために結局何も出来なくて。
 彼の命を未練がましくこの世に留めておく事しか考えつかなくて。
 けれど。
「ありがとうルック」
 ふわりと笑む。
 この世で一番好きな笑顔がそこにある。
「そうだね。記憶の中じゃなくて、ずっとルックと生きていたいね」
 曲解してるだけなのかもしれなくてもそれはなんて甘い言葉なのだろうか。
 この先にある未来がとても怖い。
 彼の火が消えるのがとても怖い。
 親友の為に自らの命を投げうつ彼がとても怖い。

 呼び合っても一つになれない紋章は一つになるがために憑代の躯を傷つけて。
 彼らのように力を使いすぎてしまったならもう息を途絶えるしかなくて。
 一つにしてしまうしか道は残されていなくて。
 それを云ったときの彼の複雑な表情がまだ胸に残ってる。
 そして薄く開いた唇から零れた言葉も。
『じゃあ、きっと僕が死ぬよ』
 親友を死なせるくらいなら自分が死ぬと云った。
 予測の付いた言葉だったけれど真実を纏ったその言葉はいやに大きくて。
 耳を塞いでいっそ何も聞こえなくした方がましだと思った。
 そんな言葉が聞こえるならこのまま耳を潰してもいいと思った。

 明日にはもう      彼はいない。

 火を掲げて走る。
 火を消さないように。
 けれど間に合うように。

 この火が消えてしまうのがとても怖い。
 君がいなくなるのがとても恐い。

 君はこのまま歩いていける?
 僕はそれを見るのがとても恐い。
 君の決断がとても怖い。

 明日にはもう      彼はいない。

 お互いの右手に巣食った紋章に口付けた。
 それから互いの紋章を繋ぎ合わせてそのまま。
 唇を重ねた。
 染めていく柔らかな感触が。
 永遠であれと願う。
 崇高なる少年達の儀式。

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