触れる

 怖いのはこの手。
 怖いのはこの指。
 怖いのはこの力。
 怖いのは。

 怖いのは。

 怖いのは。


 自分。


 手を伸ばしかけて、そのまま止めた。
 まるでそこに見えない壁があるかのように、指はそこから先へ進めない。
 ルックは軽く歯を噛んで、差し出しかけた手を戻した。
 触れる事は怖い。
 触れることはとても怖い。
 それが大切なものなら更に怖い。

 屋上の塀の上にマユキは座っていた。
 蒼穹は高く、白に侵食されることなく青い。
 日差しは熱を溶かすように暖かいが、時折撫でる風は反比例して冷たい。
 だからこんな熱の中でもうだる事がないのだろう。
 ルックは塀に座る隣の熱を見遣り、彼の視線の先を見た。
 それは限りなく続く地平だ。その先に何が、もしくは彼の求める、彼の還る故郷があるのかなど解りはしない。
 いや、それとは別に、マユキの視線の先がルックのそれと同じとは限らないのだ。
 それに、マユキのその瞳に映る景色が、それを等しく彼の脳に伝えているのかなんて解りはしない。
 見たものは簡単に意識によって刷りかえられる。見たくないものを見たかったものへ。
 所詮、思考なんて別のものだし。
 ましてやルックのそれとマユキのそれが同じものなんて奇跡は起こらない。
 だからルックは息を吐く。
 今までどうでも良くて、当たり前であった事が、どうして彼を前にするともどかしくなってしまうのだろうか。

   他人を、それこそ自分以外の物の気持ちを、細部まで知りたいと思うなんて。
 そして出来うるならば、この自分の気持ちを彼に細部まで共有して欲しいと思うなんて。
 それが出来ないからヒトだと言えるのに。
 いや。そうであっても、自分はヒトですらないのだけれど。
 ルックは自嘲した。
 どういう風に考えても、ああ、ヒトはこういうものなんだな、と思うと同時に、ああ、そういえば自分はヒトではないのだな、と気づく。
 だから自分はヒトと行動を同じくする必要がないと、独りを装ってきた。
 関心は持たない。関連も持たない。
 けれど自分の思考の端があまりにもヒト的だと思うと、それと同時に虚脱と嫌悪が襲ってくる。
 自分はヒトではないのだと。
 ヒトになりたいと羨望した、ヒトの贋作だ。
 だからルックは自嘲する。
 贋作なら、こんな感情など備わっていなければ良かったのに。と。
 …いや。それは本当なのだろうか。

 ルックはまた、風に靡く茶色の髪を見上げた。
 彼の目はただ、遠く、地平の向うを眺める。
 例えばその目の先を共有したいとか、その、誰にでも向けられる笑顔とか、彼の行動全てを檻に込めてしまいたいという浅ましい感情は確かに持て余すけれど。
 けれど。
 彼のその、自分に向けられる感情を受け止める事が出来るのなら、こんな本当にヒト臭い感情も備わっていて良かったと思う。
 いや、もしかしたら彼がいたから備わったのかもしれない。
 人間ではない自分に、至極人間らしいこの感情。

 ふわり、と風に飛ばされた小さな花弁が、マユキの茶色の髪の先に張り付いた。
 それはひらひらと揺れて自己主張する。
 ルックは手を伸ばしてそれを取ろうとした。
 が。
 まるで見えないバリアにでも阻まれたように手は動きを止めた。

 触れることは怖い。

 今までこの手は破壊にだけ使われてきた。
 それは決して護るためではない。
 最終的に護るものがあって、破壊するのではない。
 ただ、破壊する為に破壊してきたのだ。
 歯を噛んだら、ギリ、と嫌な音がした。

 触れることは怖い。

 どんなものがどうなっても関係なかった。
 触れたものが壊れてしまっても気にもならなかった。
 それなのに。
 それなのに。

 今隣に居る彼の事を本当に護りたいと思う。
 触れて、壊れない事を願う。

 そして出来うるならば。
 ずっと触れたいと祈るのだ。
 ずっとその手を取っていたいと祈るのだ。
 身分不相応な浅ましい願いだと知ってはいるのだけれど。

 君は壊れない?
 この手が触れても壊れない?
 君は壊れない?
 この手が触れても笑ってくれる?

 確証は             ない。

 一生懸命マユキの髪に張り付いていた花弁は、吹かれた風に飛ばされていった。
 高く飛ばされたそれは一瞬で青に溶け込み見えなくなった。
 その姿に、少しの哀切を思う。
「ルック」
 躊躇いもなく、マユキはルックの名を口にする。
 当たり前に呼ばれる自分の名前。
「そろそろ中に入ろっか。今日は夕飯は何かなぁ」
 そう云って塀の上から綺麗に飛び降りて見せた。
 それに伴って、土埃がかすかに舞う。
 見上げれば、空の青には少し金が混じってきている。
 そろそろその金も赤に侵食され、黒い手が向うから迫ってくるのだろう。
「行こう?」
 そのまま手を取られた。ことにルックが驚いた。
 簡単に触れてくる手。
 自分が犯すことの出来ない領域へ、あっさりと踏み込んでくるその手。
 自分より高い熱を持ったそれは、ゆるゆるとルックの進入出来ない壁を溶かしてゆくようだ。

「君は壊れたりしない?」
 聞いても栓のない事を訊いた。
「何で?」
 何の含みもなく、邪気もなく彼は素直に聞いてくる。
 唐突なこんな自分の疑問を掃き捨てもせず拾ってくれる。
 何て愛おしいものなのだろうか。
 だからこそ触れられないのに。
「僕の手は誰かを護れるようなものじゃない」
「ルック?」
「僕の手は誰かを壊すためにあるんだ」
「ルック」
「僕は君を壊すかもしれない」
「ルック!」
 衝動を止めるかのように、彼の腕で包み込まれた。
 一瞬が、可笑しい事に永遠に思えて、世界が白くまっさらになった気がした。
 永遠を思うなんて、とても馬鹿げた事だと思うけれど。
 彼の髪の匂いがした。
「壊れないよ。ルックに壊されたりしない」
「マユキ」
「だって僕はルックに護られてるんだから」
 そう云って彼は簡単に笑う。

 触れたいと切望する。
 触れたいと熱望する。
 その熱を感じたいと哀願する。

 空にはもう不躾に早い一番星が、まだ明るい空に白い点を空けていた。
 手を繋いで。髪を梳いて。背中を撫でて。頬を包んで。唇を重ねて。
 触れて、感じる熱。
 それがただ、愛おしい。
 唯一の信じられるものだ。
 壊れる事はなく。壊す事もなく。
 ただひとつ。護るために触れるのだ。

 夜の鳥が近づく音がする。
 自分の指がすべらかに彼の頬をなぞる事に歓喜する。
「ルックの手は壊すだけじゃないよ。僕にちゃんと幸せをくれるもの」
 壊れる事はない。
 もう何も壊れる事はない。
 確証は彼がくれる。
 自分の中の唯一の神である彼がくれる。
 だから大丈夫。
 抱きしめる腕に力を込めた。
 触れることに躊躇いも、逡巡も、壁もいらないと。
「ありがとう」
 重なる唇に願いを込めた。






 ああ。だけど。
 闇は墜ちた。
 血溜まりから跳ね返った。
 壊れてしまった。
 跡形もなくなった。
 残骸にはもう熱はなかった。
 ただ、壊れてしまった。

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