5555 | 神切り | 優様 |
彼の髪がさらりと落ちた。 彼の神がさらりと堕ちた。 彼は髪を切る。 彼は神を斬る。 汚い灰色の床にその身を押し付けて。 崇高であんまりにも綺麗だった彼は。 自らの神の血でその衣に薄汚れた沁みを造り。 もうここに戻れない。 彼の神がさらりと消えた。 涼しくなった項を見せられた時嫌な予感がした。 けれど何かにつけ悪い方向に考えてしまうのは自分の悪い癖だと思い直した。 だって、ただの気分転換なら良くあることだ。 ビッキーがいきなりショートになればそれは驚く事だが、今眼前の彼がショートになろうともそれは驚く事ではない。 単純な思考を哲学的な経路に配置して自分を納得させる。 けれどやはり一抹の不安を覚えるのは何故だろう。 今までほぼ彼のシンボルとまで言われていた肩口の髪は今はもうない。 すべらかな、さらりとした項が彼が司る風を感じているだけだ。 今までの30年くらいの時間、彼の肩で揺れていた髪はもうない。 「髪切ったんだ」 言いたくない言葉だったのだが、初見のリアリティはすべらかに唇を飛び出した。 彼が眉間に寄せた皺でそれがどれだけ嫌な言葉かを知る。 訂正で覆い隠そうとしても、もう遅い。 飛んだ言葉は空気に混じって明らかに彼の耳に伝わる。 「他に言うことないの?」 会話が圧力で変えられる。 「ご・・・ごめん」 口腔の中だけで息をするように言葉を吐いた。 ふわりと熱い空気がゆっくりと流れ出る。 ルックと会うのは久方振りだった。 戦争が勝利の中で終結して、15年が経った。 それは長いとも言えるし、自分の生きていく道に比べてしまえば明らかに短かいとも言えた。 ただやはり、ほんの16年生きてきた少年のそれから更に加えた15年は確かに新しい知識を自分に植えたし、見聞も多大に広がったといえる。 これが生きることがあたりまえになったら、どうなってしまうのだろう。 日々、新しい感動もそのうち失せてしまうのだろうか。 花がひらく瞬間にも、雲が流れる瞬間にも、月が傘を被る情景にも、木々がさざめく音にも何も感動もなくなってしまうのだろうか。 暗い部屋の蝋燭だけ置いた明かりの中でそんな果てもない思考に狭められて途方に暮れてしまう事が幾度となくあった。 その度に両の耳を塞いで充てもなく首を振った。 けれど、そして翌日は必ずといっていいほど、窓辺に風が訪れるのだ。 まるで前日の不安の電波を受け取ったかのように。 彼は小さな子供をあやすように笑って、わざとらしいため息を漏らす。 『仕方のない子だね』とでも言わんかのように。 けれどいつ頃からか自分がそんな思考に陥っても翌日風は姿を現さない日が続いた。 いや、続いたというくらい頻繁に陥っている訳ではないが。 急に間が抜けたと思えるくらい彼は来なくなったのだ。 それは深紅の鮮やかな紅葉の中で立ちすくむ感覚に似ていて。 どこか奥底が空洞になったような喪失感。 けれど後ろを振り向けない弱さ。 そんな充てもない感覚をずっと持て余して続けていたら。 そして、今日久方振りに彼が顔を出した。 いつもと同じようにふわりとカーテンを揺らして、次にはもうその桟の上に両の足を付けて。 けれどその肩口には風と共に揺れた髪はなかった。 彼が来たときに淹れたお茶はもうとうに冷めてしまっていた。 無言の圧力が苦しくなってきて、お茶を淹れ直すのを口実に立ち上がった時。 後ろ手をくん、と掴まれた。 何があったのだろうと彼の方を見やると、彼は真摯な双眸で。 「お茶なんていいから、ここにいてよ」 子供のような声だと思った。 引かれるままに彼の腕の中に収まる。 ゆっくりとした鼓動が微かに聞こえて、何も云わなくてもそれだけで何故だか心が落ち着いた。 先ほどまでの沈黙の痛さが嘘のように。 ぎゅ、と力を込められて少し驚いた。 まるで彼が泣いているように思えた。 いや、もしかしたら実際は泣いていたのかもしれない。 顔を見れなかった今、それはもう知ることではないのだけれど。 「ごめん」 蚊の鳴くような声でそう云われた。 答えなんて求めてなかったし、応えても欲しくなかったけれど。 謝罪に思わず疑問が飛んだ。 「何?」 きっと、誤魔化されるだろうと思っていた。 そして案の定唇が重なっただけだった。 何に対しての謝罪なのか。 言葉は意味を持たず空虚に空へ上る。 哀しいくらいに軽く、上っていく。 ただ、その。 抱きしめられた腕の強さに。 どこか大きな決意を思えた。 とても痛くて苦しい。 決意の情を思えた。 ルックが死んだのはその次の日だった。 「これを貴方に」 雪のように白い手が差し出された。 載っていたのは色素の薄い茶色の毛束。 すぐにそれが何であるか解った。 「わたくしが持つよりも貴方が持つべきです」 盲目の彼女はそう、云った。 リン、と鈴のように張り詰めた音が部屋の中をくるくると回る。 壁に当たってはまたどこかへと返っていく。 白い紙でまとめてあるそのけた毛束を震える手で受け取った。 微かに彼の匂いがした。 「どうして彼は・・・・・・どうして・・・何も、云ってくれなかったのでしょう・・・・・・?」 彼のいない空虚がようやく躯に染み込んで来て、その得るもののない力のなさに呆然とする。 ああもう。 彼の体温を感じる事もなくなってしまったのだ。 あの、彼の鼓動を感じる事もなくなってしまったのだ。 「云って、決意が流れるのを恐れたのでしょう。そして貴方がいなくなることを恐れた」 腕の強さを思い出す。 彼の吐息を思い出す。 もうないもうないもうない。 ここにはもう存在しないもの。 「生きて。貴方は生きて下さい」 全てが溶けて流れ出した心の中で。 ただ、その言葉だけ絡まった。 なんて、なんて浮いた言葉だと思った。 レックナートの館を後にした時、ふわりと風が吹いた。 ばさりと前髪が後ろへ流れる。 「違う、違う・・・違うよこんなの・・・」 誰にも聞こえない、誰にも聞こえて欲しくない。 細い声でそう、呟いた。 彼は切りたかった訳ではなかったのに。 彼が行おうとした偉業は一体誰のためだったのか。 ルック自身のためか、いつか見たその半身のためか。 それとも真の紋章を持つ全てのものへだったのか、欲で見れば己のためだったのか。 真意はもう解らない。 そう、彼はもういないのだから。 思えばあの時、返すくらいの力強さで彼を抱きしめていたら。 もしかしたら何か変わっていたのかもしれない。 彼は何しに自分に会いに来たのか。 留めて欲しかったのか、励まして欲しかったのか。 少し考えて首を振った。 いや、きっとただ。 自分に会いに来てくれたのだ。 ただ、会いに来てくれたのだ。 ぼろぼろと涙が零れた。 それは、この世界のために偉業をなした彼への贖罪なのかもしれない。 彼の髪の束を握り締めた。 真っ白になるくらい握り締めた。 世界は何も変わらない。 この紋章の形も力も何も変わらない。 ただ、彼が。 自らの神を切って。 その血に身を浸して。 ああ。 空がとてつもなく朱い色をしていた。 それしかもう。 見えなかった。 |
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03/07 | † | 戻る |