叶う願い

 たった一日の休息ならば
 君といたいと思うのは当たりまえ
 だからせめて 願いだけは訊いて


「ルックー。お風呂あがったよ」
 濡れた髪にタオルを巻きつけながら、マユキがひたひたと部屋に入ってきた。
 頬がピンク色に染まっている。
 今の彼はいわばステータスほかほかだろうか。全身から白い湯気が立っている。
 ルックは読んでいた本を置いて、彼を手招きした。
 そしてそのままタオルを取ると、髪をわしわしと拭いてやった。
 どうやら風呂からあがったすぐのようで、彼の髪の先からは雫がぱたぱたと落ちている。
 ふと彼が来た向こうをみやると落ちた水滴てんてんと光っていた。
 それに苦笑して。
「ちゃんと乾かしてからきなよ」
「だって、早くここに来たかったんだもん」
 少しだけむくれてこちらを見遣る。
 そうする事がさも当たり前のように。
 仕方ないね、とまたもや苦笑して、ルックは再び彼の頭をわしわしと拭いてやった。

 今日のマユキはレックナート様の星見の塔でお泊りだ。
 いや、本来ならばルックだけがいつも通り里帰りをする予定だったのだが、それにマユキが我侭を言って付いてきたのだ。
 初めは反対していたシュウも最後には頭を抱えて「1日だけだ」と許しをくれた。
 その後アップルに頭痛薬と鎮静剤を貰っていたのは内緒の話だ。
 それ程にマユキの我侭は強烈で頑固で引きを知らなかったと云うべきか。
 一番困惑したのはルックで、まさか軍師が許しを出すとは思わなかったし、その上この星見の塔には誰かを泊めるような用意はない。
 自分と彼女だけが生きていけるような設備しかないし、そもそもが誰かを迎えるような所ではないのだ。
 けれど許しを貰って嬉しそうにしている彼に、無理だ、なんて言えやしなかった。
 我ながら甘いと思う。
 けれど、いつもと違う空間に一緒にいられるというのはまた。
 それはそれで甘い蜜のような気がする。

 自分が危惧していたより易くレックナートは彼を迎えてくれた。
 おかしな気もするが、共に夕食も食べた。
 それから共に風呂に入ろうと手を引っ張る彼を何とか宥めて独りで入らせ、そして現在の状態がこれだ。
 ここの風呂はノースウィンドゥの城と違い、あまり広くないのだ。
 とても二人でなんて入れやしない。
「ほら、飲みなよ」
 とりあえず雫が垂れない程度に拭き終わってから、紅茶を彼に差し出した。
 カップの中で赤い液体が揺れる。
 それを一口含んで、彼は嬉しそうに笑った。
 自分にしてみれば何がそんなに嬉しいのかよく解らない。
「何笑ってるのさ」
「えへへ〜だってさ」
 お茶請けにココアクッキーを出したら更に彼は嬉しそうな顔をして、頬を緩ませた。
「ルックが僕だけのものみたいだもん」
 全く意味が解らない。
 そして全く笑える話ではない。

「だってさ、お城にいると女の子達は皆ルックを見てるでしょ?キャーキャー言ってるし。でもここなら僕とルックだけだもん」
 彼はまた紅茶を飲んでそう云った。
 そんな事はないだろうと言ったら全身で否定された。
 それに、この塔の中でだって別に二人きりという訳ではない。
 誰かの存在を忘れてやしないだろうか、この軍主は。
 けれどこういう事を言われると少し心が浮く。
 それが他でもない彼ならば更に浮く。
 結局それはこの、よく解らない感情のせいらしい。
 好きだとか、恋だとか、誰かを拒絶する事には慣れてきた筈なのに、誰かに好意を寄せる事には全く慣れない。
 それに自分なんかを好きだという奴の気がしれない。
 けれど、それでも彼は自分を好きだと云うし、一緒に居たいと言う。
 自分は素直に好意を口にする事も出来ないのに、それでも彼はついてきたりする。
 色々難儀だろうにと思うし、それはまた感服に値する。
 自分の相手はさぞかし困難だろう。
 かれど彼が自分に笑ってくれたり、嬉しそうにしていたりするとどこかしら心は緩む。
 だから、彼の顔を歪ませる人物は切り裂いてしまいたい衝動に駆られるし、そんな事して赦されるのは自分だけだと思っている。
 果たしてこれが恋というものなのだろうか。

 お茶を済ませた後、既に世界は夜の扉の中だった。
 雲の切れ間から覗く月が柔らかな光をベッドの上に落としている。
 どうやら今日は満月のようで、少しの灯りでも部屋は光で満ちていた。
 当然のようにベッドの隣に布団を引こうとしたらその手を捕まれた。
「何?」
「いつもみたいに一緒に寝ればいいじゃん」
「僕のベッドは君の部屋のでかいベットとは違うんだよ」
 反論を赦さない調子で云うと、彼は理解したのかしてないのか、とりあえず掴んだ手を離した。
 けれど拗ねてはいるらしい。
 少し頬を膨らませている。
 全く何でこんなに我侭なんだろう。
 いつもの彼にしては珍しい。
 我を通す事はよくあるけれど、なんだかんだで他人に振り回されているきらいがあるのに、今日は珍しく自己主張が多い。
 正しい事に反論はしないし、勿論間違った事は正すけれども、特に我侭を言ったりはしない筈なのに。
 まあそんな事。考えても仕方ないことか。
 いつもよりの疲労を感じて、ルックはもそもそとベッドに入った。
 蜀台の明かりを消すと、部屋は月光に満たされる。
 ああ、そうか。久しぶりにあんな大量の食器を片付けたからこんなに疲れているのだな。と。
 疲労の理由を考えながら。

 カチリと時計の音が聞こえた。
 闇は全ての音を増長させる。
 そして隣の彼は眠れないのだろうか、もう何度目かの寝返りを打った。
 ルックはふう、と息を吐く。
 ほわりと少しだけそこの空気が暖かく染まった。
「マユキ」
 薄く、それだけ呼ぶと、彼は少しだけ上体を起こしてこちらを見た。いや、闇夜で解らないが、きっと気配でそう感じた。
 煌々とした月は雲の中に姿を潜めてしまった。
 光が満ちていた部屋は、今はただ闇を溶かした中に沈んでいる。
 ルックは布団をめくると、ただ。
 仕方ないね、と言った。
 そしてマユキはそのままルックの隣に収まった。
 体温が伝染するようにルックに流れ込んでくる。
 髪から自分と同じ匂いがするのに少しだけ変な感じがした。
 けれど、突然訪れた安息のようにただ無言に。
 そのまま二人は眠りの淵に沈んでいった。




「何で昨日はあんなに我侭だったのさ?」
「んー?」
 スカーフを何時ものように首に巻いて、彼はこちらを見やった。
 どうやら帰宅の準備は整ったようだ。
 楽しかったかどうかは解らないが、これでお泊り会も終了である。
 彼はまた軍主に戻るのだし、自分もまた。 あの石版の前で嘆息する日々に戻る。
「何時もの君はもっと聞き分けがいいはずだよ」
「我侭じゃないよ。僕の願望だよ」
 さらりと当たり前のように言うが、全く意味が解らない。
 自分はそんなに馬鹿ではないと思ってはいるのだが、これは彼のせいなのだろうか。
「ルックと一緒にいたいと思う、ルックと一緒に食事をしたり、眠ったり、お風呂に入ったりとか。全部ルックと一緒にいたいと思うのは、ルックが好きだからだよ」
 独り占めしたいと思うのもね。
 にこ、と笑った彼に、何かを云おうと思ったのだが、何を云えば良いのか。言葉は充てもなくそのまま飲み込まれた。
 マユキはそのことに気づきもせず、レックナートに呼ばれて部屋を出て行った。

「それではお気をつけて行きなさい。貴方の選んだ先に、路はあるでしょう」
 バランスの執行者はそう云ってマユキの額に祈りを残した。
「ありがとうございます」
 マユキは手鏡を取り出した。ふわりと一瞬の光が二人を包む。
 その中で。
 一瞬のその中で。
 ルックはマユキの手を 握った。
 彷徨えるこの気持ちに名前を付けるのはまだ難しくて。
 けれど、だけど。 どうか。
 一緒にいて欲しいと  願う。
 それはきっと、彼と同じで叶えてもらえる願いだ。
 叶う事を知っている願いだ。

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