キズナ

「どうしてこっちを選んだのさ」
 開口一番はそれだった。

 戦争というものが終わって、マユキがこの部屋で仕事を始めてから、ようやく落ち着いたくらい。
 毎日の仕事の量にも慣れ、大分戦争中の事にも思いを馳せる事が出来るようになったくらい。
 彼と彼女がいなくなった事実を、体全体で理解する事が出来るくらい。
 それくらいの時が経った。
 その間何回もこの部屋で赤い夕日の光を浴びた。
 血のように染まる空を何回も見た。
 あの時夕焼けの中、彼女と一緒に待っていた彼は来てくれたけれど。
 あの日独りで待っていても彼も彼女も戻ってきてはくれなかった。
 既にこの世界のどこにも、彼らがいないということを理解ってはいたけれど。

「どうしてこっちを選んだのさ」
 開口一番はそれだった。
 一日の職務を終え、椅子から転げ落ちそうなくらい背をまげて伸びた時。
 声に驚いて本当に落ちるかと思った。
 大きな観音開きの窓から、カーテンが大きく揺れて、風が吹き込んで来る。
 背中には大きな赤い色。
「ルック」

 突然の来訪者に、それでもマユキはお茶を淹れてもてなした。
 けれど先ほどからルックの表情に緩みは見られない。
 その様子が、更にマユキを沈ませた。
「冷めるよ?」
 遠くを見つめたまま、何も云わない彼に痺れを切らして、マユキは適当な事を言ってみる。
 けれどルックの睫は少しも動かない。
 彼は何かを決めかねているようで。
 口の中に溜まった言葉をそれでも零すべきかと悩んでいるようだった。
 仕方なくマユキは、茶器の液体を喉に押し込む。
 静か過ぎるこの空間を何とかしたかった。

「君にはこちらを選ばない選択肢もあった筈だ」
 彼は彼なりに言葉を選んでいるようだった。
 マユキはそれでもその意味が判らずに首を傾げる。
 こちらというのが何で、選択肢と言うのはどれとどれのことだろうか。
「彼を選べば、こんな所で王にならなくて済んだのに」
 ああ、そういうことか。
 思考が理解に回った。
 何故紋章を別った選択肢を選ばなかったのか、ということか。
 戦争が終わった後、全てが始まったあの崖でジョウイと逢った。
 ハイランドの王ではない、ただのジョウイと逢った。
 自分の中に選択肢は二つあった。
 紋章を統合し、永遠の命を得るか。
 紋章を別ち、限りある命をジョウイと生きるか。
 選択肢は二つあった。

 そして選んだのは。
 無限の命だった。

「うん。そうだね」
 マユキは笑った。
「でも僕はルックが欲しかったんだ」

 ルックは口を開いたが、そこから出てくる音はなかった。
 空の色は赤が濃くなってどんどん闇に侵食されようとしている。
 風は熱を纏うのを止め、少しずつ冷めてゆく。
 ルックが開け放ったままの窓からまた、風が流れてマユキの頬を撫でた。
 窓枠の端に薄く月が見えた。
 マユキは思い出したように立ち上がり、部屋のランタンに灯りを点けて回った。
 部屋に侵入しようとしていた闇はまた、追い出されてゆく。
 少しの愁いを潜ませながら。

「どういう意味?」
 マユキが自分のカップに二杯目の紅茶を注いだ時、彼がようやく口を開いた。
 今度は言葉が音として流れ出た。
「永遠の命があれば、その時間ずっとルックと一緒にいられるよね。ルックと生きていけるなんて、こんなに嬉しい事はないよ」
 マユキの言葉は永遠を話すには軽すぎて、ルックにはそれを信じる事が出来なかった。
 諦めていた筈だったのだ、自分は。
 もう誰も一緒にいてはくれないのだろうと思っていたのだ。
 隣にいた筈の熱が、ある日目覚めたらいなくなる事に恐怖を覚えた。
 繋いでいた筈の手が、気付いたら消えている事に恐れを覚えた。
 執着をした物ほど、いなくなった後の哀切は限りなくて。
 だから何にも思いを込めないと誓った筈だったのに。
 マユキの言葉はあまりにも優しすぎて、そして望みすぎて。
 まだ心は疑心を唱える。

「信じられない?」
 願いが叶うなんて思ったことはなかった。
 寧ろ願いなんて叶わないものだと思っていた。
 永遠を生きる自分には執着は長い時間の少しの欠片だ。
 やがていなくなる存在なら、執着しなければいいだけのこと。
 そうすれば悲しむことはない。
 そうすれば心を擦り減らす事はない。
 いなくなってゆく人々にいちいち涙を流す事はない。
 そう思っていたのに、この戦争で出会った彼には簡単に感情が落ちた。
 坂道を転がるように、止めることも出来ず、想いが回った。
 隣に触れられる熱がある事に初めて歓喜した。

「でも本当の事だよ。僕は君といたくてこっちを選んだんだ」
 それが真実だった。
 国の為でも何でもない。
 それが本当だった。
 国なんて別にどうなっても構わなかった。
 ただ彼の命の隣にいたかった。
 自分がそうすることで彼の心の棘がいくらかでも抜けるのなら。
 自分がそうすることで彼の長いこれからが寂しくならないのなら。
 自分勝手で傲慢かもしれなくても、ただ、そうしたかった。
 ただ、彼が欲しかった。

 例えこれからが想像もつかないくらい果てしなくても。
 隣に熱があるのなら、穏やかに心を保ってゆける。
 彼の隣にいられるのなら永遠なんて安い。
 永遠でも超えられる。

 そう。
 ただ、彼が欲しい。

 ルックの白磁の頬に涙が流れた。
「何で、…っ。僕はもう……っ」
 全てを諦めた筈だったのに。
 永遠を知った時に全てを棄てた筈だったのに。
 その言葉にまた甘く希望を持ってしまう。
 マユキが背中を撫でた。
 大丈夫だと言わんばかりに。
 暖かく優しく背中を撫でた。



 久しぶりに訪れた彼とまたあの時のように同じベッドに潜った。
 久しぶりの隣の熱に、マユキの心は溶けてゆく。
「それにしても大した国王だね」
 大分落ち着いたのか、ルックの涙の痕は消えていた。
 マユキは蜀台の炎を消した。
 墨を溶かしたように闇が部屋に広がる。
 窓の月が緩やかに白い光を室内に流した。
「国より……」
「ルックを選ぶなんて、って?」
 言い出せない続きを、マユキが繋いだ。
「そんなの当たり前だよ。誰の為の永遠だと思ってるの」
 ルックは言葉もなく、ただ、彼の唇を舐めた。
 それから耳朶と首筋に紅い痕を残す。
 少しだけ彼の体が跳ねた。
「だから…っ。もっと…来てよ……っ」
 擦れ擦れに声を出した。
 もうそれからは言葉を繋げるのは無理だった。

「ん」
 短くそう云って、額にも唇を落とす。
 そのまま金色の環を外した。
 彼の頬が少しずつ熱を持ってゆく。
 衝動が彼等を支配した。

 永遠なんていらないと思っていた。
 けれど彼と一緒なら、永遠もいいなと思った。
 いや、それ以前に。
 永遠で彼と一緒にいられるなら。
 何を犠牲にしても自分は永遠を手に入れるだろう。
 永遠だけが絆。
 永遠だけが繋ぐ。
 それだけが絆。
 

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