疵を隠す物達

 吐き気がスルホドこんなにもヒトが憎イと思った事はナイ。
 彼が感情を殺しテまで護り通シタ意味も持ち合わせてハいない。
 そんなモノを託すほどヒトには価値なんて見出せなかっタシ。
 ましてやどうして彼が彼らを自分を盾にして護るのかさえも解らなかった。
 彼程に重要でもない。
 彼程に大切でもない。
 けれどそんな事を云ったら君はきっと。
 微笑って”そんなことないよ”って云うのだろう。

 云うのだろう。

 それはあまりにも哀しくて愛しくて残酷な言葉。
 自分には彼程に必要なものなどないというのに。

 赤い血がだくだくと流れていた。
 それは今でも鮮明に焼き付いている。
 今、何かを思い出せと云われたら、そうだ。
 どこまでも流れるのではないかと思った赤い血。
 空ろな空洞に見えた彼の目。
 揶揄にも聴こえるほどの煩い人間の声。
 その中に優しいものはなかった。

 デュナンの統一戦争から15年が経った。
 それは決して短くはなく、そしてそんなに長くもない時間。
 けれど世界は確かに変遷し、いつか戦争に加わっていた者達は自らの次期に身を譲るくらいには至った時間。
 あの時子供だったものが、大人になるには十分な時間。
 戦争話は過去の産物へと消え、街からはその惨状も消え失せ、平和だけが彼らの心の深くに残った。
 平和だけが人々の心に巣食った。
 変わっていく人々に、変わっていく街並み。
 街の市長も変わり、かつて一つの街であったティントは独立し。
 そう。確かに。
 時間というものはこの世界を取り巻いて流れていっているのだ。
 けれどそれに不相応な人物がただ独り。いた。
 この国の王たる権限を持つ彼。
 戦争が終わって当分、国はあまりにも安定していた。
 成長しない国王を誰もが喜んだ。
 ずっと同じ人が治めれば、それだけ国は落ち着く。
 王が変わるから街も変わっていくのだ。
 それが人々の認識だった。

 けれど人々の考えはいつまでも同じ所にとどまっているものではなかった。

 あんなにもヒトを。
 ヒトを憎いと思った事はない。

 あんなにも。
 あんなにも世界を憎いと思った事はない。

 この紋章を憎いと思った事はない。

 15年感情は変わらなかった。
 戦争が終わってからもルックの一番大切なヒトはマユキのままだった。
 そしてマユキの一番傍にいて欲しい人もルックのままだった。
 天秤はいつ、傾いたのだろう。
 均衡はいつ、崩れてしまったのだろう。

「僕はどうしてここにいるのだろう」
 空ろな目で彼はそう云った。
 唇に乗る筈のない言葉が。
 それを云わせたのは彼の愛した国民だった。

 ルックが久方ぶりに彼を訪ねてみると、彼は子供のように足をぶらぶらさせて出窓に座り込んでいた。
 いつもは訪れると大抵執務をこなしているので、今日は珍しいなとその顔を覗き込んだ。

 覗きこんで。

 あまりの事に息が出来なくなった。

 彼の目はまるでもう何も映さない。
 それは空ろな孔。
 ただ顔に孔が空いているだけ。
 白と黒がまだらに混ざったような双眸が。
 けれどそれはもうどこも見ていないように見えた。
「ルック」
 かさついた声が唇から零れた。
 あまりにも晴れすぎて干からびたような声。
「もうどうでもよくなってしまったよ」
 それは決して彼からは発せられる筈のない言葉だった。
 けして彼が云うはずのない言葉だった。
 少なくともこの国が出来たときには。
 少なくとも一番最近に彼と会ったときには。
 ルックは泣きもしない彼を抱きしめた。
 いくら痛くても傷を隠して泣かない彼をただ両手で包み込んだ。
 何を云っても彼には伝わらなくて。
 ただこうするしかなかった。

 いつか君が僕に見せてくれた。
 限りない世界の限りなく広がる色のかたち。
 君の爪弾く言葉の先々に見えた、様様な物の色のかたち。
 君が生きている世界を護ろうと思わせるくらいに。
 僕にはこの世界がとてもいとおしく思えた。
 君が生きてくれているだけでこの世界は僕にとってとてつもなく貴重なものとなった。

 それなのに。
 それなのに。

 繋がれた真珠の首飾りはぷつりと音を立てて切れた。
 ばらけた宝石は大きく跳ねて転がっていった。
 それをもう拾う気力すらない。

 そして拾う意味すらない。

 ああ、やはり世界は灰色へと歩を進める。
 未来に待ち構えているものは何もないだらだらとした空。
 どろりとした地面。
 ヒトの生きていけない世界。
 もうその方向にしかヒトは進めなくなってしまっている。
 君がいつか見せてくれたあまりにも綺麗な世界は。
 もう不相応なものになってしまった。
 ここに生きていく人たちにとって。
 不相応なものになってしまった。

 

「シュウ」
 いかにもな造詣の重い扉を開いて開口一番にそう云った。
 思惑通りここは城の中の中枢部分だったらしい。
 かつて本拠地にしていたノースウィンドウの会議室に置かれていたものがちらほらと目に付く。
 けれど言葉にした名前の持ち主は不在であった。
 代わりとでも言うように置かれた見知った顔を見つけてルックはそちらに詰め寄る。
「クラウス。シュウは何処へ行った?」
「ルック殿・・・。お気を鎮めて下さい」
「こんなになってどう鎮めろっていうのさ。シュウは?シュウは何処へ行ったのさ」
「シュウ殿は不在です」
「じゃあ、君が責任取ってくれるの?クラウス」
 少しでも動いたらあっという間に息が出来なくなっているだろうなと、クラウスは遠く頭の中で考えた。
 こんなに殺気立った彼は久方ぶりに見る。
 いや、もしかしたら15年前に見たのはまだ可愛いものだったのかもしれない。
 今眼前にいる彼はあの頃とは比べ物にならないくらいとてつもない怒りを孕んでいる。
 クラウスは自嘲するように唇の端を持ち上げた。
 結局自分達は彼を、この国の王を蝕む寄生虫でしかなかったのかもしれない。
 いや、自分の中で彼への敬心は揺ぎ無いものとして心に残っている。
 けれどこの状況を抑えられなかったのはそれはもう自分の罪であるとしか言いようがなかった。
 ただ本当に自分は彼を敬い、彼を大切にしてきただけなのに。
 ただ本当に彼が好きだっただけなのに。

 天秤はどうして傾いてしまう?
 どうして人は自分の事を考える?

 建国当時誰もが彼が王になる事を望んだ。
 自分達も、重臣も、国民も、この国に住まう人なら誰もがそう願った。
 この国を平和へと導いた年若きリーダーを。
 そして、心優しき少年はそのあまりにも膨大な我侭な声に応え従った。
 どこへ旅立つ事もなく、けれど王座に座る事もなく、毎日を人々の為に毎日を他人の為に走り回った。
 彼にとって、リーダーである事も、王である事も大してそう変わりはしなかったのだ。
 街は平和に繁栄し、他の国からの民も増えた。
 国が栄華を極めていく姿はとてつもなく晴晴し、誇らしくあった。
 けれどどこからともなく、火は上がり。
 知らぬ間に大きな火事になり。
 そして全てを燃やす火の海となる。

『ほら見てごらん。王はどんなにか経っても少年のままだ』
『姿が変わらないなんて、ああ、恐ろしい』
『成長もしないといものはもはや人外であるに違いない』
『王はずっとあの姿のままで、わたしらの子をどうにかするのじゃないか』
『この国が滅びるのを待っているのだよ』
『よう聞けば恐ろしい力を持っているらしい』
『異形のものだよ』
「異形のものだね』

 民は反乱を起こした。
 いや、ある意味革命なのかもしれない。
 たった15年でこの国の均衡はあっさりと崩れた。
 世の中を治めるのはずっと同じ人がいい。
 それが15年で世の中を治めるのは同じ人間がいい、に変わった。
 成長しない彼は国民に人間として認識されなくなったのだ。
 そして王は、全てのものを見なくなった。
 抉り取られた傷を隠して、ただ笑うだけになった。
 白と黒がまだらに混ざった曖昧な双眸で、笑うだけになった。
 それはなんて痛ましくて、繊細で儚くて。
 そしてとてつもなく綺麗ですらあった。

「・・・っ」
 ギリとルックは唇を噛んだ。
 ぷつりと端から赤い液体が盛り上がる。
「そんなんだから・・・そんなんだからいつだって紋章を持つものは逃げるしかないんだ」
 ソウルイーターも、吸血鬼も、盲目の占い師も、そして自分も。
 逃げたり隠れたりするしか道は残っていなかったのだ。
 けれど、彼だけはそんな事がないと。
 何よりも人が幸せになる事を願う彼だけにはそんな事はないと。
 誰も彼を傷つけたりしないと。
 そう思っていたのに。
 思惑は破綻した。
 繋がっていた筈の糸は一方的に無粋な鋏で切られてしまった。
 それならば周囲の全てを殺めてでも彼を連れ出さなかった事に今更ながら後悔する。
 そしてそうしなかった自分を腹立たしくも思う。
 今更どうあがいたってもう遅いだけだと解っていても。
 全てを否定して、全てを呪う言葉しか思いつかなかった。

「クラウス様!」
 不躾な程大きな音で扉は開かれた。
 とても穏やかな気色とは言いがたいそれに、ルックは思わず身構える。
 血相を変えた士官が震えながら入ってきた。
「何かあったのですか」
「国王が!マユキ様が!!」

 そうだ。
 今何かを思い出せと言われたならば。
 だくだくと流れて止まない赤い液体。
 その色が少し染まった鋭利なもの。
 何も映さなくなった、孔の空いた双眸。
 低くなってしまった、体温。
 そして、それでも笑っていた彼の顔。

 傷を隠してそれでも笑う彼の顔。

 彼は先ほど座っていた出窓の下で、足を投げ出して座っていた。
 空の色は映えるような朱い夕焼けで。窓型に切り取られたその色が部屋の床に絵を作る。
 そしてその朱と重なるようにだらだらと流れている赤い液体。
 それはこの世で一番大切な彼の手首から流れ落ちていた。
「マユキ」
 何も見なくなった目をそれでも覗き込む。
 まだ微かに息をしているのが解る。
 そして、そうだ。
 彼は笑っていたのだ。
 いつでも笑っていなければいけないという枷はここまできても彼を繋ぎとめて縛りつけた。
 不細工に歪んだ形でもそれは確かに笑顔の形だった。
「ルック」
 蚊の鳴くような小さな声を彼は絞り出すように発した。
 よく聞こえるような唇に耳を近づけた。
 小さな息が耳の中に入り込む。

 

「ぼく。なんでいきてるの」

 この世界は護るに値しない世界だ。
 あの時護りたいと思ったのも所詮虚像でしかなかったのか。
 君が放棄した世界は僕にとってもいらない世界だ。
 君がもうあの色を見せてくれないなら。
 もう見せる事も出来なくなったのなら。
 もう見せてくれる事が困難なほどこの世界が汚れてしまったのなら。
 僕は全てを受け止めて綺麗に流してしまおうと思う。

 君がこの世界をいらないというのならば。

 

 

「本当によろしいのですね」
 すずろかな軽い声が聞こえた。
 は、とルックは目を開き現のものに囲まれる。
 無機質な石の柱が目に入った。
「ああ」
 確認する必要もないと、ルックはかぶりを振った。
 それにセラも頷く。
「真の紋章を破壊すれば、均衡は崩れる。彼はその力から解き放たれる。普通の人間として生きていける・・・」
 独白のように呟いた。
「デュナンに被害はいかないんだね」
「ええ。行ってもミューズまでは届かないでしょう」
 ふうとルックは息を付く。
 どこからかからり、と音がした。
 崩れた柱の石の欠片でも落ちたのだろう。
「君はもう逃げていいんだよ。僕の我侭に付き合わなくてもいいんだ」
「いいえ。いいのです」
 そう云ってセラはやわりと笑んだ。
 彼にとってあの人がいない世界がいらないのと一緒で自分にとっても彼のいない世界はいらないものだ。
 それならばせめてここで共に朽ち果てさせて欲しい。
 何も、何もあの人には届かなかったけれど。
 そして、ましてや彼に愛してもらいたいとも思わなかったけれど。
 だって自分はあの人の何にも追いつけない。
 マユキと言う人のどんなものにも追いつけない。
 だから彼の手伝いをした。
 彼と共に死ぬために。

 けれどこの人は何も解っていない。
 そして、自分も何も解っていないのかもしれない。
 彼のいない世界であの人もまた生きていけない事に。
 彼は気付いていないのだろうか。

「それじゃあ始めようか」
 すべてが始まる言葉が彼の口から発せられた。
 そこでもう全ては加速していき、もう。
 戻る事すらも赦されない。
 スタートラインはとっくに消されてしまい跡形もなく。
 進むべき先は闇でしかない。
 感覚の奪われた闇でしかない。

 

 出窓に彼は座っていた。
 最近ここに座って一日を過ごすのが当たり前になってしまった。
 以前ならば自分は。
 今でも視界の隅に入るあの大きな机で沢山の紙切れと格闘していたのに。
 けれど今は。
 朝が来ても、陽が高くなっても、空が赤く染まっても、月が出ても、そしてまた鳥がないても。
 ここでずっとこうして座ったままだ。
 カチャリ、と軽い音がして、閉められていた筈の窓が開いた。
 そして入り込んだ風が、彼の茶色の髪の先をゆうるりと撫でていった。
 瞬間。
 この国の王はもういなくなった。
 呼ばれるように風に乗り、出窓から姿を躍らせた。
 王はいなくなった。
 けれど王は、最後まで笑ったままだった。
 最後のそれはとてもとても安らかな。
 とてもとても幸せな笑顔だった。

 彼はもう王という枷から外された。
 そして永遠という檻の扉も開かれた。

 

 

 白い光がもう一つ、盲目の目にも感じられた。
 一つ目のそれよりは強くない光であるけれど、彼女にはそれが誰であるか解ったようだ。
「貴方も来たのですね」
 彼がこうなることを自分は知っていたのかもしれない。
 それは、自分の弟子がこうすることを告げた時からだろうか。
 それとも。
 彼に宿星を背負う運命を告げた時からだろうか。
 いいや、今ではもう関係のない事だ。
 ただ自分にはそれほどまでに相手を思い、そして全てから解き放たれた彼らをとても羨ましく思えた。
 例えそれがこんなかたちであったとしても。
「行きなさい。108の星は貴方達を祝福するでしょう」
 二つの光。
 かつての弟子と、彼の愛する人の光が遊ぶように戯れるようにくるくると重なって遠ざかった行った。
 あの光はこの世界を回り、沢山のものを見るかもしれない。

 信じて下さい。貴方はとても幸せだったと。

 そしてわたしも願いましょう。
 あなたに祝福あれと。

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