路〜MaYuKi SiDe〜

何かがどこかで鳴った。

 例えば、ナナミが作ってくれた豪勢な食事の前で不機嫌な顔をしたら彼女はどう思うだろう。
 その後も彼女は何のためらいもなく笑ってくれるのだろうか。

 何かがどこかで鳴った。

 それは何も躊躇いもなく軽く小さく鳴った。
 頭上の木々がざわめく。
 気配を感じる。

 いや。
 これは気のせいだ。
 幻聴であり、幻覚で、この心が生んだ願望だ。
 そんなはずはないから。

 だって、彼は今ごろ。
 お気に入りのソファで分厚い本を読んでいる。
 蝋燭のゆるやかな明かりだけが彼の部屋への侵入を赦されていて。
 小さな、けれど温かな光は彼の顔に陰影を付けて。
 磁器のような顔は闇にきれいに浮き彫りにされる。

 決めたのは自分。
 そして何も云わなかった彼。

 決めたのは彼。
 そして何も云えなかった自分。

 いくつもの路の中でこれを選んでしまったのは自分。
 彼の隣で笑う事を赦さなかったのも自分。

 胸が痛む。
 けれどこれはまだ嬉しい痛みだ。
 彼の事をまだ好きだと云える痛みだ。

 今怖いのは。
 今、怖いのはこれが痛みだと気付かなくなること。
 何も感じとれなくなってしまうこと。
 自分がどうしたいのかさえも解らなくなってしまうこと。

 闇の風が頬を撫でて行った。
 ナナミとジョウイはもうとっくに柔らかな息を吐いている。
 その周囲は嫌に穏やかで、自分とは違う空気を感じた。
 それは透明な有刺鉄線。
 刺さるのが怖くてどこへも行けない。
 そして刺さるのを怖がっている臆病な自分。
 更にどこへも行けなくなってしまう弱い自分。

 変わってしまっているのだ。
 もう既に。
 何もかも変わってしまっているのに今更何も知らなかったようにジョウイと話なんか出来るはずもない。
 彼はほんの前まで敵だったのだから。
 彼はほんの前まで自分の同朋を殺していたのだから。
 それが例え自分を護るためだったとしても、自分が同盟軍を選んだ時からそれはもう言い訳にしかならない。

 会いたい。
 声が聞きたい。
 手を撫でたい。
 髪に触りたい。

 会いたい。
 会いたい。
 会いたい。

 どれだけ何を考えても行き着く先には彼しかいなくて。
 一生懸命他の事を考えてもふとした契機でそれはいとも容易く戻ってしまう。

 思い出すのは陽に透かした金茶の髪。
 細くしなやかな指先。
 綺麗で透明な碧の目。
 柔らかで白い肌。
 風が吹くたびにその金茶の髪が空に舞うのが好きだった。
 彼が言葉を爪弾く度に動く唇が好きだった。
 彼の全てがどうしようもなく好きだったのに。

 それを放棄してきたのは自分だった。
 何の間違いもない
 それをいらないと決めたのは自分だった。

 どこかで何かが鳴った。

 薪の火は立ち消え、薄寒い風が蹲った自分の横を擦り抜けて行く。
 どうして自分はここにいるのだろうか。
 どうして自分はそこから逃げてしまったのだろうか。
 どうして戻れる筈もない過去に戻ろうとしたのだろうか。
 戻れた所でそれは全て嘘にしかならないのに。
 それはもう過去を塗りつぶせる程の威力にはならないのに。

 ふう、と息を吐いた。
 どこにも行かずにそれは闇の中に消えた。
「ルック・・・・・・」
 言葉を吐いた。
 今までの思考を全て内包した、全ての感情を持つ言葉を吐いた。
 どうしても愛しくて、どうしても忘れられない言葉。
 大好きな、名前。
「ルック・・・・・・」
「何?」

 パキリと音が、ありえない声と共に、した。
 空耳かと思った。
 どこかで鳥の鳴いている音かと思った。
 もしくは心が産んだ闇の言葉か。
 悪戯な風の音か。
 どうしてもそちらを向けなくて。
 そちらに向いて何もなくて落胆するのが怖かったから。
 どうしても声がした方を向けなくて。
 ただ、もう一度その声がしないかと。
 それを願った。

「マユキ」
 恐怖が一瞬で消えた。
 いや、恐怖が出てくる前にそちらを向いてしまった。
 ありえない事を知っていた。
 そうならない事を知っていた。
 だって彼は今ごろ。
 自分を忘れてお気に入りのソファの上。
 なのに。

 ルックだった。
 そこにルックがいた。

 何だろう。
 これは何だろう。
 思考が産んだ影か。
 実態の無い何かの魔法か。
 明らかに間違っている。

「ルック」
 けれど言葉は飛んでいく。
 少しの動揺と歓喜と哀しみを含んで。
 思わず唇から言葉が飛ぶ。
「以外の誰に見える?」
 変わらない言葉を吐いて、彼の唇の端が少し、歪む。
 夢を見ているのかと錯覚するくらいに。
 どうしようもなく嬉しかった。

「何で・・・?」
「不安定な思考ばっかり飛ばしてるからさ」
「ルック・・・?」
「に見えない?」
 マユキは言葉も出ず、ただかぶりを振った。
 腕を伸ばして、触れる距離に彼がいるのがただ、どうしようもなく嬉しくて。
 何にも構わず、彼にただ抱きついた。
 彼の背中の感触も、その碧の法衣の匂いも、何も変わっていなかった。

「ずっとずっと・・・会いたかったんだ・・・・・・」
「・・・うん」
「ずっと・・・ルックしかいなかったんだ。全部、全部、何を考えてもルックしかいなくて。何でルックから離れたのかってそればっかり考えてた・・・」
「うん、マユキ。だから迎えに来たんだ」
 その言葉に驚いた。
 けれども瞬間答えは決まってしまった。
 付いていく。どこへでも、付いていく。
 こんな思いをするなら一緒にいて辛い方がいい。
 それ以上に嬉しい事も沢山あるから。
 二人が一緒にいたあの城には帰れないかもしれないけれど。
 そこじゃなくても二人が一緒にいられる場所はたくさんある。
 どこでもいい。
 一緒なら空さえも飛べる。

「行っちゃうの?マユキ」
 背後の声に振り返るとナナミが立っていた。
 その後ろには切ないくらいの闇が広がっている。
「ナナミ・・・」
「いっていいよ。だって、マユキ、ルックんのこと大好きだったもんね・・・」
 彼女は笑顔だ。
 けれど、言葉の端に少しの滲みが感じられた。
「だから気にしないで・・・。おねーちゃんは笑ってるマユキが好きなんだから・・・」
「ナナミ・・・ごめん」
 滲みは緩やかに広がる。
 緩やかに広がって、その波紋は他を侵食していく。
 けれどその形は紛れも無く、笑顔だった。

 ルックはマユキの手を取った。

 終わっていない。
 まだ、終わらない。
 路は続いていく。

 また間違えたとしてもきっと彼は連れ戻しに来てくれる。
 自分が、それを間違えだと気付いた時に。
 きっと彼はまた自分をその両手で包み込んでくれる。

「大好きだよ、ルック。ずっと君の所に還りたかったんだ・・・」
 自分がピタリと彼の隣に当てはまった気がした。
 これで、誰かに正解だと言われたような気がした。
 ここにいるのが。
 ルックの隣にいるのが。
 真実の自分なのだと。

 離れる事はない。
 ずっと一緒に。

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