右手

忌まわしきはこの右手か。
それとも。

 暗闇を一人で歩くのは嫌いだ。
 闇に体を侵食されるようで嫌だ。
 一定間隔で置いてあるランタンの溜息の下で、いちいち立ち止まってしまうくらい。
 闇は嫌いだ。
 そうは思っていても、武道館から自室への道のりは遠くて、先の見えない闇にざわりと胸が鳴る。
 この先をまだ歩けというのか。
 マユキはふ、と息を吐いた。
 吐いたからといってこの闇が薄くなる訳じゃないと知っていたけれど。
 それはある意味の決意だ。

 何回歩いても夜の渡り廊下は怖い。
 くり抜かれた窓から木々のざわめきが聞こえてくるし。
 そのゆたゆたと動く姿は得体の知れない生物のようで、あらぬ姿を想像する。
 次のランタンの場所はまだ遠い。
 マユキはまた息を吐いた。

 時。
 かつり、と音がしてマユキは背中を震わせた。
 冷たい水か背中をすうと流れていったような錯覚すら覚える程に。
 予期もしない音は肌を粟立たせる。
「マユキ?」
 呼ばれた声は更に予期せぬものだった。
 高いような低いような。酷く安定しているようで、それでいてどこか寂しい音。
 けれども自分の不安材料を全て吸い取ってくれる。大好きな声。
「ルック!?」
 安堵の息を吐いて振り返ると碧の法衣が近づくのが見えた。
 あと少し来ればランタンの灯りに照らされる。
 あと少し来ればその顔が見れる。
「こんな時間にどうしたの?」
 素直に聞いてみると彼は僅かに頬を歪ませた。
 それはこっちの台詞だと云わんばかりだ。
 何となくそれが見て取れて、マユキは目を伏せた。
「君を探していたんだよ。今迄何処にいたのさ」
 案の定だ。
 これではまるで迷子のようだとマユキは少し赤面した。
 幾ら広いといえど、仮にもここは自分の住んでいるいわば家なのに。
 家人に心配されて家を探されるなんて。
 落胆の色が少し、頬をなぞって落ちた。

「図書館」
「調べ物?よく締め出されなかったね」
「鍵持ってるから」
 そう、と言葉を彼は溜息と共に吐いた。
 彼は今どんな顔をしているのだろう。
 伏せた視界にはやけに明るい煉瓦の床に自分のブーツが見えるだけだ。
 それから外れた所は全て闇にしか見えない。
 境目すらも全て闇だ。
 明るいのはここしかない。

 次にランタンが咲いている場所までどれくらいあるのだろう。
 闇は怖い。
 うかうかしていたらきっと呑み込まれてしまう。
 思考も躯も全て取り込まれてしまう。
 排出された自分は、もう光を見れないかもしれない。
 それは高すぎて明るすぎて相応しくなくて。
 そして闇の中に取り込まれてもやはり、闇が怖くて光を求めるのだろう。
 それでも、と。嘲われても。

「こんなに冷たくなってる」
 ほわりと暖かい指先が頬に触れた。
 溶けていくように緩く熱が伝わる。
 いつもなら自分の体温の方が暖かい筈なのに。
 いつもなら自分の熱が彼を緩く溶かすのに。
「こっち見たら?」
 少し刺を含むような物言いで彼はそのまま頭を撫でた。
 先ほどまでの熱を追うように、マユキは自分の頬を触った。
 そしてそのまま視線を上げた。
 思っていたより彼の顔は変わっていなくて、何だか複雑な気分だ。
 だからといってどんな表情をして欲しかったのかと聞かれると、それは困る質問なのだが。
「ごめん」
 謝罪は驚く程簡単に唇から滑り落ちた。
「何に対して謝ってんのさ」
「心配させたこと」
「僕は心配してないよ。ナナミが煩いだけ」
「……じゃあ僕の体が冷たい事」
「何ソレ」
 一蹴するように鼻で笑われた。
 相変わらず素直じゃないな、とマユキは思う。
 否定する時に誰かを引き合いに出すのはルックの悪い癖だ。
 いや、ナナミが本当に心配しているのは有り得る事ではあるのだが。

「ほら行くよ」
 白い手が差し出された。
 素直に手を出したが彼は嫌な顔をして。
「僕と手を繋ぐ時くらいソレ外したら」
 慌ててマユキは紋章を隠すグローブを外した。
 いや、元々の理由は”紋章を隠す”ではないのだけれど。
 今になってはその理由の方が計りは重い。
 得体の知れない呪われた力は、やはり隠されるに相応しい。
 人は信じられないモノを容易く信じられる程簡単ではないから。
「やっぱり今日の君の手は僕より冷たいね」
 彼は少しだけ嬉しいのかもしれない。
 言葉の音にそんな雰囲気が混ざっている。
 いつもは暖められる側であるのに、今日は反対なのが嬉しいのかもしれない。
 そして、彼が嬉しい事が嬉しい、自分。

 手を触れたらチリ、と少しだけ痛んだ。
 真の紋章同志が触れると時々ある現象だ。
 忌むべきはこの右手かそれとも。
 それとも。
 紋章と繋がってしまったこの運命か。
 いや、けれど。
 運命を呪うにはまだ自分は幼すぎると。
 ただ、それだけ理解る。

 手を繋いだ。
 自分の右手と彼の左手が繋がった。
 通る訳がないのに、まるで血まで繋がったように。
 手のひらから熱が伝わって来る。
 その熱は循環して躯全体に広がって、滞った思いはゆっくりと巡っていく。
 ただ、本当に彼が好きだ。
 こんな気持ちも全て繋がってしまえばいいのに。
「ありがとう。ルック」
 外した謝罪から止まっていた言葉がようやく流れた。
 彼によって薄く温まった体と共に、ようやく思考も流れた。

 ランタンの光の輪から踏み出した。
 暗闇を一人で歩くのは嫌いだ。
 けれど今はもう一人じゃないから。
 嫌い、ではないけれど、それなら好きじゃないくらいに下げておこう。
 ルックと歩く暗闇なら怖くない。
 飲み込まれても助けてくれる人がいるなら怖くない。
 次の花まで遠くても、隣の熱があるなら何も平気だ。
「行こう」
 その言葉に少しだけ力を込めた。

 繋がる指先。繋がる手のひら。
 繋がる紋章の右手。
 隣の熱。隣の温度。
 隣の想い。

 計りしれない。計りしれない。計り知れない。



「そういえば何を調べていたのさ」
 自室の灯りを点けた時、思い出したようにルックが云った。
 マユキはブーツを脱ぎ捨ててベッドに飛び込んだ。
 もう冷えてしまった太陽の匂いに顔を埋めて、ただ一言。
「ナイショー」


 消えていく意識の中でただ。
 彼が撫でてくれたのが判った。

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