ただ、戻るだけ

ただ、戻るだけ
だから何でもない
悲しみもない
だけど笑顔なんてもっとない
ただ、戻るだけ
約束はなかった
真実もなかった
だけど嘘なんてもっとなかった

ただ、戻るだけ
君がいなかった日常へ


 がらんとした自室の出窓にマユキは座ってただ外を見ていた。
 開けた窓から進入ってくる風が何もない部屋をただ、廻る。
 使っていた少しの家具は既にミューズへ移動してしまった。
 戦争の終わってしまった城内は無音で、以前のような喧騒はなかった。
 集っていた人々は徐々にここから離れてゆく。
 元の街へ戻ったり、新しい世界を求めたり、それは人それぞれ。
 そして自分は新しいこの国の首都となる、ミューズへ移動する。
 モノは全部移動してしまった。
 だから後は自分だけだ。
 ヒトも全部いなくなってしまった。
 だから残っているのは自分だけだ。
 風がまた、部屋を 巡る。
 触れる物が何もなくて、だから、留まる事なくマユキの髪を撫でて出てゆく。
 余韻を名残惜しむ事もなく。

 今日起きたらルックは既にいなくなっていた。
 元々何もなかった部屋は更に何もなくて、ホールの石版前には靴音すらしなかった。
 主のいない石版は何故だかとても大きく見えた。
 マユキがその冷たい表面を撫でて小さく名前を読んでみても、何も奇跡は起こらなかった。
 けれどマユキは薄い思考の中で、今日こうなる事をどこか予測していた。
 昨晩の重ねた手の平とか、唇の苦さとか、冷たい体温の奥底から。
 きっと、これが最後なのだろうと予測していた。
 だから、きっと、何も。何も感情はない。
 予測していた。予期していた。戦争の結末にはこんな事が起こる事くらい。
 それが前触れもなくやって来ることも理解っていた。
 相手がルックならば尚更だ。
 誰の目に止まる事もなく、自分の涙さえ見る暇もなく消えてしまうだろう。
 湿っぽいのが嫌いだとか、さよならを言いたくないとかそんな事じゃない。
 自分という存在をきっと誰にも残したくないのだ。

 窓の外の青が、向こうから金に色を変えてゆく。
 その向こうから鮮やかな赤と黒が追うように迫ってくるだろう。
 いい加減ここで待っていても何も見つからない。
 理解っている。待っている事なんてもう無駄でしかない事を。
 マユキは息を吐いて窓を閉じた。
 できるだけゆっくりと。ほんの少しでも猶予を伸ばしたくて。
 けれど絶望は軽い音と一緒に何の躊躇いもなくやってきた。
 お別れの時間だ。

 ただ戻るだけだ。
 マユキはそういい聞かす。
 ルックを知らなかった、戦争を知らなかった、あの頃の自分に。
 ただ戻るだけだ。
 だから何でもない。
 あの頃の毎日と感情を思い出せばいいだけだ。
 だから何でもない。
 隣の彼女も、いつも一緒に居た彼ももういないけれど。
 たった一年前の事を思い出せばいいだけのことだ。

 そして。
 そして、例えば毎日の業務に忙しくしていれば思い出せることもないだろう。
 そんな日々が続いていけば、きっと思い出すこともなくなるだろう。
 だから大丈夫。
 だから大丈夫。
 彼がもう来ないかもしれなくても。
 もう、会うこともないかもしれなくても。
 大丈夫。
 彼が
 来なくても。

 窓は閉めてしまった。
 赤から黒に変るのは早すぎて、空にはもう星が出ている。
 あとはもう自分だけだ。
 ここから出て行かなければならない。
 仄い部屋に、窓から射す月光がまっすぐ扉まで続いていた。
 まるで自分の歩くべき道を示すように。

 ただ戻るだけ。
 あの生活に。
 約束なんてなかった。
 真実もなかった。
 けれど、嘘すらもなかった。


 嘘でもいいからせめて。


 冷たい床の感触が、ヒヤリと足の裏に感じられた。
 いい加減にしないと、またシュウが心配するだろう。
 いや、引越しに忙しすぎて、それどころではないだろうか。
 ペタペタと、愚図る子どものように重い足取りのそれで、マユキは自室の扉を開けた。
 何時も大きく思っていたその扉は、今日は何故だか小さく感じられる。
 最後だからだろうか。
 いや、
「また、………来るね」
 ここには言い尽くせない思いが、感情があった。
 大切な者を得て、大切な者を失った。
 もう、朝の鳥の声で目を覚ましても、隣には誰もいないのだ。

 扉を開いて、足を外の闇に出した。
 時。
 後ろから吹いた風が、髪を吹き上げた。
 反射的に、マユキはそちらを振り返る。
 窓は閉めたはずだった。
 だから。
 けれど。
 そこに、ルックが、いた。
 どうしてそこにいるのか、訳が解らなくて、もしかしたら会いた過ぎて幻覚が見えるようになってしまったのかと、名前を零した。
「るっく?」
「何?」
「るっく!」
「何?」
「ルック!ルックだ!!」
「だから何?」
 この扉に来るまであんなに時間が掛かったのに、ルックのいる、その窓辺へ戻るのには一瞬だった。
 幻じゃないように。幻覚じゃないように。
 取り逃がさないように、慌ててマユキはその、法衣の袖を掴んだ。
「ルックのばか!さよならぐらい言ってってもいいじゃない」
 思わず本音が零れた。
 そうか、自分は別れの言葉が欲しかったのか。
 いくら無言であるのが彼らしいと思っていても。
 いくら昔の自分に戻るだけだと理解しようとしても。
 偽りと慰めと、自分が傷つかないように覆い隠したその底に、こんな言葉が隠れていたのだ。
 いや、けれどきっとその先には、更に深い我侭が潜んでいる。

「君はこれでさよならなの?」
 思いがけない言葉が返された。
「この場所がなくなったからって、何で会えないのさ」
「え?」
 ルックがここに居る事と、ルックが発した言葉の意味が理解出来なくて、混乱が回って、目が回る。
 くらくらしてると、腕を引かれて、彼の法衣に包まれた。
 ルックの匂いがして、リアルがようやく追いついた気がした。
「ごめん、焦りすぎた」
 そう言って、ルックは大きく息を吐き、マユキの髪をゆるゆると撫でた。
 室内はがらんとしているから物音もなく、微かな衣擦れの音だけが矢鱈と響く。
「本当はこれで終わりにしようと思ってたんだ」
 ああやはり。
 マユキの予想は当たっていたのだ。
 偶然ではなく意図的に、ルックは姿を消していたのだ。
 出会う前に戻るように。何もそこになかったように。
 ちくり、と何処かが痛んだ。
「だから何も云わずに、君にも会わずに出て行くのが良いと思ったんだけど」
「だけど?」
 顔を上げたら、思ったより近くに彼の顔があって、大きく鼓動が鳴った。
 背後の月光がすべらかにその貌を白くなぞる。
 こうやって見るとやっぱり幻なんじゃないかと思えてきて、思わずマユキは手を伸ばし、その腕を引き寄せた。
「また会えるんだよね」
 マユキが確かめるように手を繋いだら、ルックから口付けされた。
「そうだね。もう暫く、君を手放す気はないよ」


 気付いたら随分と遅くなってしまっていたので、ミューズへは明日行く事にした。
 遅れた事をシュウさんはきっと怒るだけろうけれど、まあそれは仕方ない。
「毛布が残っててよかったね」
 城の中を探し回ってようやく見つけた一枚だ。
 少し煤の匂いのするそれに、二人で包まった。
 やっぱり少し肌寒くて、隙間の無いようにぴったりと身体を合わせた。
 体温と鼓動がまるで同じもののように、重なる。
「ねえ、さっきの」
「何?」
「暫くってどれくらい?」
 マユキはちらりとルックの目を覗き込む。
 暫く、ではなく、出来る事ならずっと、が良かった。
 欲を言えば永遠に、か。
 するりと手を伸ばして、ルックの手がマユキの頬を撫でる。
 嘆息するように息を吐いて。
「馬鹿だね。僕たちの暫くが、どれくらい長いと思ってるのさ」



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