風の匂い

 彼の匂いがする。

 何故だかふと、そんな事を思って思わず笑ってしまった。
 だって、自分には彼の匂いが何なのか明瞭と解っているわけではないのに。
 彼の匂いはいつも色々で。
 例えばそれは春の沈丁花の香り。
 それとも、夏の青い蒼い湖の香り。
 もしかしたら切ない秋の乾いた匂い。
 最後に何もなくなった、冬の冷たい雪の匂い。
 だから、どれが彼の匂いかと聞かれても。
 明瞭とこんな感じがルックの匂いだなんて云えなかった。
 だから自嘲する。
 ふと吹かれた風に彼の匂いを当て嵌めるなんて。

 いや、けれどそれはある意味正解であるのだ。
 どれも彼の匂いではない。
 返せばどれも彼の匂いになりえるのだ。
 ましてや風の匂いなんて、風の申し子である彼にぴったりの匂いだ。
 そこでもし何が風の匂いか、と聞かれたらマユキには答えられないのだけれど。
 ふわり、とまた。
 夕暮れの甘い匂いが頬を掠めて行った。
 それはどこかの家の温かな夕餉の匂い。
 子供を迎える準備に出来た匂い。
 仕事の疲れを癒す匂い。
 夜の腕は向こうから暗闇を連れてくる。
 帳が落ちてしまう前の一瞬の。
 暖かくて悲しくて幸せな時間。

 夜になった途端。
 それは一瞬に冷めてしまうから。
 軽く切なく、一切を剥ぎ取って。
 どこへともなく、消えてしまうから

 城を包んでいる塀の上に座るのがマユキは好きだった。
 いや、それは過去形ではない。
 現に今だってここでこうして座っている。
 ここからは城のどこまでもが見える。
 いや、勿論裏側なんて無理だけれど。
 向かって右側は商店が連なり、城へと続く。
 正面はそのままルックがいつもいるホールだ。
 左手には図書館。さらに左手奥には道場があって、そこからも城中に入る事が出来る。
 森閑としていたこの廃城に人が集まり、これだけにするのにどれくらい掛かったのだろうか。
 永くて短い一瞬を思い浮かべ、少しだけ笑む。
 夕暮れの城の風景は、それだけで一つの絵のようで。
 城の周りが、空の朱に馴染んでいく様子は心奪われるほどに綺麗だった。
 だから、マユキは、夕暮れになればここか、もしくは屋上で。
 朱く染まっていく空とそれに混ざりゆく城の様子を見ているのだった。

 昼間の熱を帯びた空気は夜に向かって少しずつ冷めていく。
 夜の腕は徐々に自分に近づいている。
 見上げれば空の星と共に、城内の灯りも光り始めていた。
 そろそろ自分も城の中へ戻る時間だ。
 ぐずぐずしていると、あっという間に連れられてしまう。
 その奥にあるものを、出来れば今は見たくない。
 マユキは軽く躯を浮かして塀から飛び降りた。
 足裏に少しだけ響く軽い痛み。
 それに何故だか苦笑して。


 深夜。
 眠る前。
 何故だか少しだけ寂しくなったから。
 それはあの夕暮れに空洞が見えてしまったからだろうか。
 あの限りない一瞬に、ぽっかりと落とされてしまったからだろうか。
 そして、吹かれた風に彼の事を思い出してしまったからだろうか。
 廊下をヒタヒタと歩くと、聳えるような影が付いて来た。
 躊躇いもなくその扉を叩いてみる。
「どうぞ?」
 自分が誰であるか見透かした答えだ。
 もしかしたら、ここへ自分が来る事さえも知っていたかもような。
 例えば他の誰かが同じノックしても。
 彼は「否」の返事すらしないだろう。
 この部屋に入れるのは自分しかいない、とマユキは自負している。
 ドアを開くと彼はランタンの灯りの下で本を読んでいた。
 いつもの風景だ。
「何?」
 視線の先は文字列のまま。
 素っ気無く言葉だけ飛ばされた。

 いつもと何ら変わらない彼の様子に何故だか安堵して、マユキはそちらに近づいた。
 そして彼の隣に座り込んで、その細い腰に両腕を回した。
 彼のしている事なんてお構いなしだ。
 けれど流石の彼もこれには驚いたようだ。
 持っていた本が少しだけ手のひらから滑った。
「何?」
 けれどマユキは答えない。
 ただ、そのまま腕を回して。
 ただ、その碧の法衣に顔を埋めて。
 頭上でため息のような音が漏れて、少しだけドキリとするが。
 彼の手が頭を撫でてくれたから、更に安堵して更に力を込めた。
 ルックの匂いがする。
 マユキはそう思った。

 どこでもない、ここにルックの匂いがある。
 ここだけにルックの匂いは存在する。
 そして、全ての風はこの匂いなのだ。
 空気中を停滞する匂いも全てこの匂いなのだ。
 全てがルックの匂いであり、ルックの匂いは全ての匂いなのだ。
 花の匂いも、湖の匂いも萌える草も、さざめく森の匂いも。
 温かな日差し、乾いた大地、笑い声のする街角。
 全てに彼の匂いが存在するのだ。
「僕はいつもルックの匂いに包まれているんだね」
 彼がそれでも、よく解らないという顔をしたけれど。
 何だかそれさえも愛しくて、にこりと笑顔を向けた。
 ああ、何てそれは愛しい匂いなのだろう。

 大好きな。
 大好きな彼のその温もりが。
 いつも自分を包んでくれている。
 それは何て嬉しくて。
 何て幸せな事なのだろう。
 彼がいつも傍にいて。
 彼がいつも見ててくれている。

 彼の匂いがする。
 今なら確信を得て云える。
 彼の匂いはここにある。
 彼の匂いは全てにある。


フレグランス=香水・コロンなのですが・・・

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