4444 相対角度 雪乃様

ずっと思っていた事がある。
君と僕の立っている位置の関係。
それは決して隣り合わない相対的な場所のような。
曖昧で微妙な位置をそのままにする角度。
けして隣り合えない。
けして触れ合えない。
そう思うたびにそれがまるで自分への戒めのように思えた。
不相応なものだとどこからか声がする。
造られた自分に、あまりにも自然な彼は似つかわしくないと声がする。
ざらざらな凹凸の目立ついやな声だ。

けれど、ただ。
君が良いというならば。
手を伸ばして。
そのほんの先でいいから。

その体温を感じることが出来たなら。

雪もきっと溶けてしまえる。

 

 目の前の扉にルックは息をついた。
 今までも何回か見たことのある扉だ。
 そして何回か開けた事のある扉だ。
 けれどルックは今その扉を開けられないでいた。
 別段特別な術が施してあるわけでもない。
 ましてや鍵が掛かってる訳でもない。
 両手がふさがっているなんてふざけた理由でもない。
 なのに今、ルックにとってその扉は数ミリも位置をずらさない頑固な壁のようだ。
 不快な意識が相乗して、更に嫌な感覚は脳内を刺激している。
 そして扉は更に開かれないものとしてルックの中に更新される。

「いい加減扉とにらめっこするのも飽きたんじゃないの?」
 けれど開けない扉は手を掛けることなく内側から開かれた。
 ルックの瞳の中を碧の布がひらりと掠めた。
 この家の主である。
「別に・・・君には関係ないよ」
 それが窮地に陥った自分を助けてくれた筈のものでも、出てくる言葉は悪態だった。
 けれど眼前の彼は手馴れた様子だ。
 自分の言葉を軽くかわして次の言葉を投げ打つ。
「迎えにきたんだろ?」
「それも・・・・・・関係ない」
 飄々とした態度に全てを見透かす透明な瞳。
 いつ会ってもこちらの怒りを扇情しているようにしか思えない。
 厄介な事は大概彼が連れてくるのだ。
 そうでなくても自分の城主は厄介事を呼び寄せる癖があると言うのに。
 出来る事なら望むのは平穏。
 誰にも邪魔されず自分のためだけにこの時間を使いたい。
 けれど自らが求めてやまない彼の連れてくる厄介事に立ち入らないなんて出来る訳もないと、自分で知っていた。
 自分の周りを飛び回る彼を無視なんて出来ない。
 何時の間にか惹かれてしまった彼をもう放す事なんて出来ない。
 それが対角の位置に存在するものであっても。
 けして隣り合えない位置に立っていても。

「そ。じゃあ、僕は知らないよ」
 けろりとそう吐いて、家主はその意識的に重い扉を易々と閉じてしまおうとした。
 は、とルックは持っていたロッドでその動きを止める。
 彼がに、と笑うのが目の端に写ったがそれどころではない。
 そんなのに意識をもっていっている場合ではない。
 二人の力の差は歴然だ。
 彼の筋力、握力全てを取ってみてもルックとの差は歴然だ。
 ルックが下という形で。
 例えルックがロッドを使って、てこの原理でいつも以上の力を出して扉が止まっていくのを止めているとしても、彼が出すほんの一握りの力で扉は軽く閉じてしまうだろう。
 そうなればルックはまたこの重い扉の前で立ち往生だ。

 扉が重いのは意識のせい。
 扉が想いのは意識のせい。
 扉は想いで重くなる。
 開けられないのは嫌な気分のせい。
 不安な気分のせい。
 心がまだらに溶けていく。
 まだらで嫌にごつごつしていて、素直な面なんて何もない。

 だって彼が何も言ってくれないから。
 だって彼が何も云ってくれないから。

 ここで何をしているのか。
 何のためにここまで来るのか。
 誰も連れずにたった独りで。

 それがもし。
 それがもし。
 目の前にいる彼に会うためだとしたら。

 例えば彼の隣にいるのがこの、目の前にいる英雄だったとしたら。
 きっと誰の目にも相応しく映るのだろう。
 だってこの二人はあまりにも類似点の多い鏡の自分のようなものだ。
 そう思ってしまうともう近づけない。
 もうここから動けない。どうにも出来ない。

「いいから彼を連れてきてよ」
 額に薄い汗を浮かばせて、ルックが薄い唇から言葉を零した。
 思考を振り切るように力をこめて云った。
 扉はギリギリ閉まる手前だった。
 その言葉を聞いて眼前の彼は笑みを更に露にする。
 ルックにはそれが最高潮にカンに触ったが仕方がない。
「ようやく云ったね」
 薄い空間の向こうで、軽い足音が向かってくるのを確認した後扉は閉まった。
 ルックは浮かんだ汗の玉を拭って空を見上げた。
 ふう、と無意識に息が漏れる。
 今の一件で一気に疲れてしまった。
 早く自室のベッドで横になってしまいたい。
 それが出来るならの話だが。

 ダン。
 派手な音を立てて扉が開かれた。
「ごめん!ルック!!」
「何が・・・?」
「あ・・・あ〜、今日も迎えに来てもらっちゃって・・・!」
 彼の顔を見て一気に安堵が躯を駆け抜けた。
 張り詰めていた空気は一気にどこか飛んでしまう。
 これはきっと自分にしかかからない彼の魔法だ。
 ふわりと空気が穏やかになるのを肌で感じると自分の彼への甘さを痛感するのだが仕方ない。
 彼には痛い言葉を吐く気にはならない。
 そんなのは城に沢山転がってる使えない奴等に使うものだ。
 愛しい彼に使うものではない。

 返事を返す代わりに彼の髪を優しく撫でた。
 ふ、と少しだけ彼が身を引いたのが解って、少しだけ訝る。
「髪、ばさばさだよ」
「あ・・・ありがとう」
 それから彼は下を向いて口を開かなくなってしまった。
 ルックはその深さの取れない意識を訝るが彼の向こうの人影を気にして言葉に出す事が出来なかった。
「マユキ」
 向こうの彼はその名前を容易く口にする。
 そして眼前の彼が嬉しそうにそちらへ駆け寄った。
 違和感が目の前を過ぎった。
 気色が陽炎のように揺らめく。
 驚くほどゆっくりと。

 英雄と呼ばれる彼がマユキに耳打ちした言葉をルックは知らない。
 この家でマユキが何をしていたのかもルックは知らない。
 二人が交わす笑顔の意味もルックは知らない。

 何も。

 何も知らない。
 何も解らない。

 変に苛苛して全てに腹立たしかった。
「ほら行くよ」
 まだ彼がこちらに向き直ってないのに踵を返した。
 それが自分のただの我侭だと解っていた。
「あ、待ってよ、ルック」
 これで彼が付いてきてくれてなかったら自分はただの道化になっていただろう。
 けれどマユキはルックの意識を放す事なく付いてきてくれて、しっかりと掴まえて隣に並んだ。
 それが本当に本当に。
 とてもとても嬉しかった。

 自分はなんて我侭なんだろう。
 世の中のものに関連をもちたいとは思わないのに。
 誰の記憶にも残りたいなんて願ってもないのに。
 自分が存在していたという形すらこの世に残したいとは思わないのに。
 何故だろう。
 彼に関しては底が抜けるほどに我侭になっていく。
 彼の記憶からは抹消されたくない。
 彼にだけは忘れられたくない。

 もし、彼の目に自分が映らなくなったら。
 自分は明瞭と死をこの唇に乗せるだろう。

 

 去っていく二つの影を消えるまで見つめていた。
 重なるように闇が集まって、光は姿を潜めていく。
 全てが消えたときざわりと周囲の木立が鳴った。
 少年はクスリと笑みを漏らした。
 あの二人を見ているのは本当におかしい。
 特にルックの方が。
 全て空回りしている事にどうして気づかないのだろう。
 下手に独りで踊っている。
 どんなにやきもきしても、どんなに焦っても、そしてどんなに悠然としていても。
 マユキの目に映っているのはルックだけだというのに。
 そして自分はそんな二人の仲に入っていくほど野暮な性格ではない。
 そんなものは馬に蹴られて何とかだ。
「光は近すぎて見えない・・・なんて皮肉だよね」
 ポツリと言葉を吹いてきた風に攫われながら、英雄は痛く笑った。
 影が消滅していった。

 

 梟が声を漏らし始めた。
 城の外、闇はいよいよ濃くなってきている。
 蝋燭を散らしたルックの部屋にマユキが訪ねてきたのはそんな時間だった。
「何・・・・・・?」
「うん。とりあえず入れてくれる?」
 昼間のことで何となく気疲れしているルックを構わず、マユキはにこりと笑んだ。
 そう邪険にする事も出来ず、ルックはそのまま位置をずらして、マユキを入れた。
 勝手知ったる何とかで、マユキは慣れた様子でベッドとテーブルの間に収まる。
 半ば呆れたように、ルックはそれを見ていた。
 何だか考える事にも疲れてしまった気分だ。
 もう何もせずに今日は眠ってしまいたいのに。
 けれど、入れた手前そう云う訳もいかず、ルックはそのまま扉を閉めてマユキの隣に腰を落とした。
「これをね、ルックに作ったんだ」
 そう云って彼はテーブルの上に白い箱を置いた。
 薄く甘い匂いが鼻腔を過ぎる。
 ルックは訝しげに箱を開いた。

「今月が誕生日だって聞いていたけど詳しい事解んなくて・・・。とりあえずグレミオさんにケーキの作り方教えてもらってたんだ」
 すとり、と闇が落ちた。
 躯に何もなくなった。
 その一言で嫌な感情は消滅してしまった。
 ああ、本当に何ていう事だろう。
 彼があの家に毎日独りで訪ねて行っていたのは自分のためだったのだ。
 そう思うとふと、どうして今まで彼を信じてあげられなかったのかと自己嫌悪が過ぎる。
 けれどルックは頭を振って、今はただ嬉しい気分に浸りたいと思った。
「出していい?」
 そう訊いてから、真っ白なクリームが乗った小さなケーキを取り出してみる。
「ルック甘いもの嫌いでしょう?これ甘くないように作ってあるから」
 僕だけで作るとどうしても甘くなるからさ、とその後小さく彼は呟いた。
「ありがとう」
 ただ純粋に感謝の言葉が零れた。
 全て自分の杞憂だったのだ。
 いや、それ以上にとてつもなく嬉しいことだ。
「ありがとう」
 もう一度そう云った。
 そして彼の頬に口付けた。
 柔らかな体温が唇を通じて感じられた。
 それはとてもとても幸福な事だった。

いつか考えた事がある。
お互いが立っている位置のことを。
それは決して近づけない対角の位置。
けして隣り合えない向かい合うだけの位置。
けれど。
手を伸ばして触れる事が出来るならば。
そのまま引き寄せて隣にしてしまえばいい。

そうしたらもう。
雪は溶けて降る事すらない。

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