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ねぇ その手を伸ばして ねぇ その手を伸ばして ねぇ その手を伸ばして この泥沼から引きずり出して ねぇ その手を伸ばして 僕を救い出してよ 自室から一直線にここまで走ってきた。 闇の中、石の窓から入ってくる月の灯りだけを頼りに、冷たい石畳を裸足で走ってきた。 額の汗がたらりと顎を伝い落ちる。 息が切れて呼吸もままならない。 心臓が、まるで自分とは別の生き物のように動いている。 マユキは大きく息を吸い込んで、とりあえず調子を整える事に専念した。 が、気が逸って仕方ない。 この扉の向こうが今、とてつもなく気になる。 彼がいるのか。いないのか。 しかし扉を叩こうとして逡巡する。 持ち上がった手が、そこでそのまま止まってしまう。 逸っていた気はここへ来て一気に萎んでしまった。 もし扉を叩いて、何の反応もなかったら。 もし扉を叩いて、その向こうに誰もいなかったら。 どうしたらいい。 どうしたらいい。 マユキは歩を返そうとして、しかし立ち止まった。 窓から入る少しの風が、髪を撫でて、汗を乾かしてゆく。 夜気を孕んだその風は心地よいくらいに冷たく気持ち良い。 ああ、しかし、だけど、やはり。 気になって仕方ないのだ。 それが単に夢の中のお話だったとしても。 それが単に夢の中でしか成立しないとしても。 先ほどまでこの身体全体を覆っていた恐怖は未だにここに残っている。 肌に粟の立つ程の恐怖と絶望が未だこの体を支配している。 だから自分は走ってきたのだ。ただ、一直線に、ここまでの道のりを。 思い返すとまた、動悸が速くなった。 風がまた頬を撫でていった。 速くなった心が少しだけ落ち着きを取り戻した。 マユキはすうと息を吸って、その風に背中を押されたように扉に向き直る。 コン。 軽く音がした。 叩いてみてしまえばそれはとてつもなく簡単だった。 しかし、意を決して叩けた音は、お世辞にも聞こえやすいとはいえなかった。 例えば中にいるであろう、いて欲しいと願う相手が寝ていたら気づかないかもしれない。 こんな小さな音では、何かに集中していても、聞き逃すかもしれない。 反応がなかった時の慰めが、マユキの中で浮かんで消えた。 独りで眠るときの彼は、どんな音にでも反応すると知っていて、言い訳を考えた。 けれど。 「どうぞ」 壁に隔たれたせいか、篭った小さな声が聞こえた。 マユキは、は、と顔を上げて、ドアノブに手を掛けた。 しかし、扉の中に入って良いものかと、またもや思い悩む。 理由があってここまで走ってきたものの、その理由は彼にしてみればある意味陳腐なのだ。 呆れたように溜息を付かれる事なんて容易に想像出来る。 扉が重い。 マユキは先ほどよりひときわ大きくなったように感じる扉を見上げた。 今日はもうこれでいい。 彼が無事である事を確認できたからこれでいい。 少なくとも今、彼はこの扉の向こうにいる。だからそれでいい。 マユキは指先で扉を撫でて、後ろを振り返った。 闇だった。 月光は雲に埋まってしまった。 闇だった。 燭台の灯りはとうに終えてしまったようだ。 闇だった。 何も見えなくなってしまった。 走る事も。歩く事も。一歩踏み出す事も。 何も出来なくなってしまった。 闇は怖い。 あっという間に飲み込まれる。 闇は怖い。 あっという間に侵食される。 マユキは仕方なく扉の隣に腰を下ろした。 小さく蹲り、両の腕に顔を埋めた。 闇を見ないように、自分で闇を作って、そして目を閉じた。 石畳の冷たさが、背筋を通って頭まで来た。 それでも、この闇の中を戻るよりずっとましだった。 「君は朝までここにいるつもり?」 軽い音がして、扉の開く気配がした。 顔を上げると、部屋の明かりから逆光になったルックがいた。 久しぶりに見る光に、マユキは軽く笑った。 「僕がまだここにいるってよく解ったね」 「君は馬鹿だからね」 差し出された手を素直に取って、マユキは立ち上がる。 足元は相変わらず冷たかったけれど、繋がれた手は暖かかった。 「馬鹿って事はないと思うんだけどな」 軽く服の裾を叩いて、ルックの部屋へ入った。馬鹿だよ、という言葉は小さすぎて聞こえなかった振りをした。 蝋燭の灯りが、壁に大きな影を揺らめかせた。 ベッドの上には、先ほどまでルックが読んでいたのか、革表紙の本が置いてあった。 きっとまたマユキの知らない異国の文字だろう。 繋がれた手が離れそうになって、慌ててマユキは手を伸ばす。 容易に繋がれた筈の手でも、一度離れてしまったら、また繋がれる事は易くないのだ。 それが、触れられる事を極端に嫌う彼なら尚更だ。 いや、でも自分はそれでも特別だと思っている。 特別だと知っている。 触れられる事を嫌う彼に触れられるのは自分だけなのだと。 伸ばした手で、後ろからルックを抱きしめた。 部屋着から、萌える草と煤の匂いがした。 ルックがここにいるのだと理解った。 「ルックがここにいて良かった」 「何の話?」 マユキは応えなかった。 ただ、部屋着を掴む手に力を込めた。 停滞したぬるい、無音が二人を包む。 窓が開いていないから、風は回る事はなくて、ただ落ちて浮かぶだけだ。 マユキの想いも感情も、浮かんで、落ちる。 ルックが嘆息した音が聞こえた。 ねぇ その手を伸ばして ねぇ その手を伸ばして 僕を掴んで放さないこの闇から救い出してよ ねぇ その手を伸ばして 僕をここから引きずり出してよ 「最近夢を見るんだ」 組んだ手を外して、ルックの前に向き直った。 慌てて追った手を、今度は自分から離してしまった。諦めのように。 どうしてだろう。 何故なんだろう。 夢を見たのは自分なのに、どうしてこんな時ルックの方が痛い顔をするのだろう。 「ルック?」 頬に手を伸ばした。 碧の双眸が醜く歪んだ。 「また誰かが死ぬ夢なんだろ」 それだけで理解ってしまう。 夢を見たと言っただけで、どんな夢なのか理解ってしまう。 前はナナミが死ぬ夢だった。その前はジョウイが死ぬ夢だった。 その度に眠るのが怖くなって、屋上で夜気に目を覚ましながら朝日を迎えた。 夜中に、ランタンを持ったルックが、嘆息しながら付き合ってくれた事もあった。 マユキは目を閉じて下を向き、そしてまたルックの目を見た。 碧の目は揺らいでいる。 「ルックが死ぬ夢だよ」 目を閉じて。 気づいたら闇の中。 踏み出すと水が跳ねた。 下を見るととろりとした液体が広がっていた。 近くに見覚えのあるサークレットが転がっていた。 暗くてよく見えず、屈んでそれに触れる。 物体は簡単に転がった。 マユキの口腔から声とも息とも思えない乾いた音が出た。 ルックだ。 液体の中で転がっているのはルックだ。 動かない。 息もしない。 目も開かない。 血溜まりにただ、転がっているだけだ。 ひくり、とマユキの喉が動いた。 そのまま目が覚めて、布団を引き剥がして走ってきた。 裸足に、石畳は驚くほど冷たく感じたが、それどころではなかった。 早く行かないとルックが死んでしまう気がした。 いや、既に死んでいるかもしれない。 胸の中で、外の木々のざわめきに呼応するかのように、ざわざわと音がした。 「でもいてくれて。良かった」 「…僕が、勝手に、死ぬわけないだろ」 「………うん。そうだね」 納得していない肯定に、マユキは歪に笑う。 だって、死ぬわけないなんて、信じられない。 戦場では何時だって誰もが断りもなく死んでゆくのだ。 だからマユキはいつだって、笑うしか出来ない。 彼らの為に泣く事なんて出来やしないのだから、笑うしかないのだ。 ただ、ありがとう、と。 「またそうやって君は、僕に対しても不細工に笑うんだね」 「だって仕方ないじゃない。笑い方なんて忘れたよ」 「ただ、泣けばいいだけじゃないか」 「………泣き方なんてもっと忘れちゃったよ」 ぽつりと零した言葉は波紋のように静かに広がった。 蝋燭の火がまた、風もないのに揺らめいて、マユキの影が大きく揺れた。 「何時でも本当に死ねばいいのは僕だけなんだけどな」 一番死にたいと思っているのに、一番死ねない。 他の誰かを犠牲にするならば、一番自分が死にたいのに、死んでしまったら自分以外の全てが犠牲になるなんて。 ジレンマでキリキリする。 信じられるものなんて何もない。 「君が君以外の誰かの為に死ぬなんて、僕は絶対に許さないからね」 そう云ってルックはマユキの手に言葉の枷を嵌める。 それは枷だけれどもマユキには必要なものだと知っている。 だって、マユキは自分の為に死ぬ事は決して出来ないから。 そしてこの言葉があれば絶対に誰かの為に死ぬ事はないから。 それは少しでも見放すとあっという間に切れてしまう糸を、繋ぎとめておくためのただのあざとい策だ。 この言葉がなければマユキはすぐに闇に転げ落ちる。 闇という名の病みへ。 「手を繋いでくれるんだね」 「そうだね」 「ついでに引っ張ってくれると嬉しいかな」 「十分引きずり出してるつもりだけどね」 「………うん」 この闇から引きずり出して その手を伸ばして 窓を開くと夜の鳥の声が聞こえた。 外界の風の流れが聞こえて、入れ替わるように空気が変わる。 闇で広がった澱のようなものが、部屋を巡って外へ出て行ったような気がした。 「ほら」 手を差し出された。 簡単に放してしまった、繋がれたい手を、今度はルックから差し出された。 それを素直にマユキは取る。 そのまま引っ張られて、素直にルックに身体を預けた。 萌える匂いに包まれた。 「狭いけど、あの冷たい床で一晩過ごすよりはマシだろ」 手は繋がれたまま、二人でベッドに転がった。 シーツの冷たさが頬に心地よかった。 引っ張ってくれる手があれば大丈夫な気がした。 このまま眠ってしまっても、繋いだ手があれば病みの夢を見ないで済む気がした。 だって、手の先にルックがいるから。 繋いだ手のルックは生きているそれだと、夢に堕ちてもきっと理解る。 そして、この手の先に大好きがあると解ったから。 羽ばたく音がした。 世界が動いてゆくような音がした。 「ルックが好きだよ」 信じられるものはここしかない。 手を引いてくれる人もここしかない。 闇に取られた自分を引きずりだしてくれる人もここしかない。 風に蝋燭の火がふわりと消えた。 | ||
Jul/11 | † | 戻る |