手のひらの温度

まだその目を開かないで。
まだそのまま気付かないでいて。
瞼の上に手を乗せて、開けないようにしておくから。
この温度だけを感じていて。
本当の事にまだ。
気付かないでいて。

 自分でも結構目聡いな、とマユキは思った。
 彼を見てその事に気付いた自分に思わず苦笑する。
 いや、今気付いたというのには語弊があるかもしれない。
 言うなればそれは、今更、なのだ。
 既にその事に気付いていたくせに自分も知らないふりをしていた。
 考えてみれば自分も同罪である。
 彼は気付いて欲しくなかったのだし、そして自分は。
 その事実に気付きたくなかった。
 彼が隠しているその事実にも。
 彼が自分に何かを隠している事にも。
 思えばそれは何て自分勝手な話だろうか。
 けれど我欲は無視できない。
 だって好きなのだから。
 カラリとまた笑みが回った。

 考えてみれば自分はその事に初めから気付いていたのだ。
 国の外れ。少し寂れた街のそのまた隅。
 小さな湖で釣りをしていたあの人に彼が声を掛けたそれを見たときから。
 思えば何て長い騙しあいだろうか。
 いつもお互いに無言で隣にいて、たまには言葉を交わしたり、稀に笑顔を見せてくれたり。
 夜の帳の落ちる中、窓型の月光の中、太陽の匂いの布団に二人で包まっていても。
 二人の間には嘘が存在していたのだ。
 その事に改めて気付いて、マユキの中でまた笑みが漏れた。
 そしてころりと寝返りを打った。
 視界の中に彼の顔が入ってくる。
 月光に照らされたすべらかな肌は陰影が濃く掘り込まれてビスクドールのようだ。
 表情も何もない顔だから何も云わなければ本当にそう見える。
 マユキは彼の額に手を当てて、その前髪をかきあげた。
「ルック」
 口の中で呟くように名前を呼んでみるが返ってくる言葉はない。
 自室で休んでいる時のルックは気を張り詰めていて少しの物音でも起きてしまうのだが、ここで眠るルックは少しの音くらいじゃ起きはしない。
 その事に自分は果たして喜んでもいいのだろうか。
 何も知らないでいられるならそれはきっと喜びの対象になっただろう。
 いや今でも少しの優越を覚えることではある。
 けれど影が侵食していく。
 深い、不快の底。

 何も適わないのだ。あの人には。
 思考も存在感も人を惹きつける能力にも。そして、戦う術にも。
 どれをとってもあの人に勝てると思えるものがない。
 だから隣にいる彼が自分とあの人を両天秤に掛けたらあっという間もなく自分が飛び上がるだろうと解っていた。
 例え彼がそんな事をしないと理解っていても。
 例え彼がとてつもなく優しいと理解っていても。
 意味もなく、理由もなく自分の中の全思考がそうする方向で回っていた。

 ああ。本当に。
 気になって仕方がない。
 3年前の戦争で彼らの間に一体何があったのか。
 無言で交わす会話の中に一体どんな言葉が含まれているのか。
 誰も解らない、本人達にしか解らない、無言の言葉。
 その糸を断ち切って、自分のそれと結び付けたいと思うのだけれど、空回りが止まらない。
 既製は天然には勝てない。
 いつか結び目から嫌な雑音が聞こえ始めるのだ。

 何も知らなかった日々が鮮やかに思い出されて涙が出る。
 自分がルックを好きで、そしてルックの奏でる言葉をただ純粋に信じていた頃を。
 今思えばそれも一時の虚像にしか思えないのだけれど。
 今思えばそれもまだらに嘘が混じっているとしか思えないのだけれど。
 残像は膨らんでいく、ゆらいでいく、けれど全てが抜けて何もなくなる。
 消滅する。
 出来る事なら全てなかった事にしてしまいたい。
 何も知らない。何も覚えてない。
 全てをリセットしてしまって、キャロの街で、ナナミと二人で居た頃に全てを逆回しにしてしまいたい。
 けれどそれに返しても彼を知らない事のほうがもしかしたら何倍も辛いのかもしれない。
 彼と会えないことにしてしまうことが何百倍も辛いのかもしれない。
 もう自分は彼の隣にしかいられないことに涙が出る。

 目を覚まさないで。
 もう何も見ないで。
 何も気付かないで。
 君が望むならその事にまだ気付かないでいるから。
 君がずっと自分の傍にいてくれるなら気付かないでいるフリなんて人を殺すよりも簡単だから。
 悲しみも妬みも嫌な感情はパンドラの箱に入れて解けない魔法を掛ける。
 全て嘘という虚像の中に覆い隠してしまうから。
 目を覚まさないで。
 僕を選んで。

 この涙に意味はない。
 泣く事を気にするくらいなら涙の流れたその路を撫でて欲しい。
 彼は目を覚まさない。
 魔法の檻の中。

 この感情は醜いものばかりだ。
 彼の前では綺麗な自分でありたいと思うのに、彼を止めておこうと思えば思うほど醜く歪んでいく。
 綺麗にさっぱりと放してしまえばいいのだろうけど、それに至る勇気がない。
 彼と一緒にいられない自分なんて考えられない。
 彼が隣にいて初めて、虚像でも笑顔が作れるのだ。
 彼がいなければ全てが崩れてばらけてしまうだろう。
 ああ、全てが矛盾している。
 進んでも進んでもまたここへ戻ってしまう。
 綺麗になりたいのに。
 彼のためにとてつもなく綺麗な自分になりたいのに。
 自分が出来る事は隣の彼を離さない術を考える歪んだ思いだけだ。

 離れても離れても君を求めてやまない。
 どれだけ離れていても反対側にいても君を求めてやまない。

 ずっと隣で笑っていて。

 君が隠している。
 真実の箱の蓋をまだ開かないで。

 冷たい唇を重ねてみた。
 感触はまだ柔らかくて少しだけ熱を持った。
 体温が移っていくことに歓喜した。
 それは自分の血が彼の中を流れるように嬉しい事。

 目を覚まさないでまだ。
 本当の事に気付かないで。
 君が隠しているその事実にも、僕が気付いている真実にも。
 君が云わない限りそれは僕も知らないから。

 目を覚まさないでまだ。
 瞼の上に手を乗せておくから。
 この手のひらの温度だけを感じていて。
 僕だけを感じていて。
 君が隠している真実を捨て去って。
 僕を選んで。

 けれど君はもう。
 何も喋れない。
 僕の中に閉じ込めてしまった。

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