† | 君の手で、その瞳で | † |
初めて人を殺した時の事を。 今でも覚えている。 ころり、とマユキは堅い地面の上に寝返りを打った。 ごつごつしているそれは、肩甲骨に当たって少し、痛い。 夜風はもうこんなに冷たくて。 このまま。 このままここで眠ってしまえば。 綺麗に死ねるかもしれないなんて。 思考はこの闇と同じく深く沈んでいく。 新月の闇はただ、星だけを一層輝かせる。 そこに、その空間に結局は何も存在していないのに。 ビュウ、と音を立てて風がマユキの体を撫でていった。 思わず体が震える。 無意識なのか何なのか、先程の思考を打ち消すように彼は体を抱え込んだ。 小さく小さく。 世界で独りきりになってしまったと錯覚してしまう程の。 そんな孤独な静寂に。 それはある意味愛しくもあり、そして最も嫌悪するものだった。 マユキはふう、と息をついた。 それは、こんな寒い風の中でただ一つの。 暖かい空気だった。 「またこんな所にいるの」 視界の隅にオレンジの灯りが燈った。 闇に慣れたその目では、それは嫌に明るくて。 小さな虫の見る、太陽のような。 そんな変な気分になった。 「またって事はないと思うんだけど」 まるで自分が手のかかる子供のような態度を取られたので、マユキはぷう、と膨れた。 そういう所が子供なんだという事に、本人は気付いていないようだ。 「また、だよ。いい加減僕にも気を使って欲しいね」 「ルックには関係ないだろ」 「関係あるよ。君の影響力は自分では思ってないだろうけど、すごいから」 マユキはちょっと。よく解らない、という顔をした。 それはそうだろう。 こんなの解る人にしか解らない。 ルックは何というか人一倍感受性が強い。 いや、それというより電波受信が強い、と云うべきか。 つまり対人がどんな感情なのか、マイナスなのかプラスなのか。 そういうのが深部まで解ると言う訳ではないが、感じ取れるのだ。 それは影響力が強い人ほどその波も強い。 言えば、前のリーダーの影響力は強いなんてものじゃなかった。 体を鷲づかみにして内部から侵食していきそうな。 そんな影響力だった。 「で、昨日も今日も一昨日も。君は何を考えるんだい」 言葉で闇が一気に侵食したのを感じ取った。 そうなる事は云う前から気付いてはいたのだが。 ルックは、云う事が自分の彼への役割だと思っている。 きっと誰かがやらなければならない役割だ。 彼の、嘘で覆い隠した笑顔の下の、無表情で固められたその下の一番脆くて柔らかい所を。 誰にも晒せない、晒せばすぐに干からびてしまうような。 そんな危うい場所を覗けるのはきっと自分だけだ。 そして、自分にとってもそれは彼だけであるのだ。 けれど。 「言いたくない」 邪険にそう言うと彼は、服の裾を合わせてまた小さく蹲った。 ルックは別に追求せず、ただ。 ただ、オレンジに光るランタンを床に置き、息を付くようにそこに腰を下ろして。 マユキの小さな体を抱え込むように抱きしめた。 何故だか解らないけれど。 いや、それはむしろ確信的に。 こうすれば、彼の、多大なる闇のほんの少しでも吸い込む事が出来るんじゃないかと。 笑顔は塗り固められて、もう剥がれて取れないくらいに固まって。 もう彼は笑顔以外の顔を作ることは出来ない。 そしてそれが嘘の笑顔であるから。 彼は本当に笑う事が出来ない。 「ルックのね・・・」 抱え込んだ腕を撫でられた。 「鼓動が聞こえる」 ぽつりと、それだけ言うと、彼はまた床に寝転んだ。 ルックはただ、それでも同じ景色が見たいと、空を見上げた。 小さな星が明滅しているのが見えただけだった。 けれども意外に、心の音は功を奏したのかもしれない。 彼の唇からぽとり、と堕ちた。 「僕はどれくらい泣けばいいのかな」 闇が、そっと。 手を伸ばして。 マユキの躯を包み込む。 「僕のせいで死んだ人のためにどれだけ泣けば、赦されるのかな」 思うのはただ、贖罪なのか後悔なのか。 人々の期待と笑顔を手に、彼はそして。 人々の憎悪と嫌悪を抱える。 「時々、時々、人を殺すこの手を、切り落としたくなる・・・っ。目も口も手足も全部、機能しなくなればいいのにっ・・・!」 そうしたらもう、人を殺さずに済む? そうしたらもう、何も考えなくて済む? 肩が小さく揺れていた。 それでも人々は彼に全てを任せてしまうのか。 ああ、貴方は彼に何を求めているのですか。 「どこかがすごく痛くて、痛くて。痛くて堪らないのに。痛みを忘れるにはもっと痛くなるしかないんだ」 だって、それしか解らないから。 でもそうするとまた痛くて軋む。 ギリギリと嫌な音を立てて。 ガリガリと軋んで壊れていく。 ゆっくりと崩壊していく。 痛みを、泣く事で消せるのなら。 罪を泣く事で償う事が出来るのなら。 彼はずっと泣いて、泣いて泣きつづけるのだろう。 そして自分だって、赦しを得るためだけに泣くのかもしれない。 けれどそんな事誰だって不可能だと知っている。 少なくとも目前の彼はそんなに馬鹿ではないのだし。 自分がどうあれば良いのかなんて言わなくても解っているはずなのだ。 「だけど、君は解っているんだよね」 瞳まで掛かった前髪を払いながら云った。 覆いの外された双眸は仄かに赤く色づいていた。 その淡い色に何故だかドキリとして、思わず額にくちびるを乗せた。 「ルック・・・」 ランタンの火が緩やかに姿を消した。 「やっぱりルックも笑っていろって云うんだ」 「君の・・・君の仕事はそれだからね」 「そうだね」 彼はふう、と息を吐いてゆっくりと起き上がった。 遠くを見つめる瞳。 それを、引き寄せたくて。 思わず、手を引いた。 「でも、泣きたくなったら僕の所へおいで」 ゆっくりと抱え込んで、彼の頭を碧の法衣の膝に乗せた。 軽く髪を梳くとサラサラと零れ落ちた。 「ルック?」 より一層色づいた瞳がこちらくをまっすぐと見ていた。 それをもう、背ける事は出来ない。 「戦争を終わらすために君は笑わないといけない。けれど、泣きたくなったら・・・」 長い雲がゆうるりと空を流れて。 僅かな星の輝きさえも覆い隠そうとしている。 自分より高い体温の、その額に手を当てて。 「僕の所で泣けばいいよ。僕が全部もらって、君を赦すから」 傍から聞けばなんて傲慢な台詞なのだろう。 自分が、誰かを赦せるなんて。 赦す、という行為が許されるなんて。 けれど。 自分がこうする事で彼の崩壊を止められるなら。 神さえ成れる。 神さえ冒涜出来る。 マユキがぎゅう、と法衣の裾を握り締めたけれど。 別に何とも思わなかった。 ただ、その一層震える背中をゆっくりと撫でて。 彼の軋みが鳴り止むのを願った。 誰かが叶えてくれるかもしれないなんて。 そんな期待はこれっぽちも抱いていなかったけれど。 出来る事なら自分の所だけで泣いて欲しい。 出来る事なら自分だけが彼を赦せる存在でありたい。 出来る事なら、自分も彼の元で泣きたい。 泣く事は贖罪にはならないと。 既に知っていたけれど。 ひくり、とマユキが声をあげた。 大分星の位置が変わっている。 もうすぐ、向こうの空が色づき始めるのだろう。 ルックが撫でてくれた先からまるで温かな光が広がっていくように。 穏やかに気持ちが凪いでいくのが判った。 夜気は静かに頬を染めていく。 遠い、遠い。 彼方の空の。 どこかの地上を見つめた。 初めて人を殺した時の事をまだ覚えている。 けれど、後悔はしていない。 血に塗れたこの手を洗っても洗っても。 もう綺麗にならないことに気付いている。 この躯がもう醜く染まっている事に。 もう、気付いている。 自分の言葉一つで街がなくなることを知っている。 昨日焼け野原にしたそこは、昔遊んだ場所だと知っている。 この間殺したあの人は、昨日殺したあの人の家族だと知っている。 どこかで子供が泣いているのを知っている。 誰かがもういない人を探しているのを知っている。 泣いても、泣いても泣いても泣いても。 もう誰も赦してはくれない事を。 知っている。 けれど。 眼前にいる彼が告げた言葉が。 重い躯を少し浮かした。 塊が溶けて流れた気がした。 それは決して消える事はないのだろうけれど。 「ルックも泣いていいからね」 見上げるとルックは少し困った顔をした。 自分だけ。 自分だけ楽になんてなれない。 彼の闇も知っている。 自分とは違うそれだけれど、繋がれた鎖の重さを知っている。 それが少しでも緩むのならば。 「ルックも泣くなら、僕の所でね」 薄く、唇が歪んだのが解った。 まるで壊れた玩具のような不細工な笑い方だったけれど。 嬉しかったのかもしれない。 手を差し出して。 君の手で。 汚れていてもいい。 君の手で。 僕に触れて。 その瞳で。 僕を見て。 君だけになら見せられる。 醜く歪んでいても。 君だけになら見せられる。 知っているから。 |
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04/09 | † | 戻る |