嘘吐き

 ずっと君 に 嘘を 吐いて い た。
 ……  …。


 自分が軍主として勤め上げた戦争から、15年という歳月が流れていた。
 まさかその時にはそのまま王になるなんて思いもしなかったけれど、住民がそれで良いと言うならそうしようと思った。
 こんな自分でも受け入れてくれる場所がある事は、この上もなく嬉しかったし。
 またそれは。幸せでもあった。

 だってもう、何処へも行けない。
 今更キャロへも戻れない。
 赤い夕日を受け止めて、高い塀に背中を預けても、彼女も彼も帰ってはこない。
 好意を受け取ってくれなかった風の子は、何の音沙汰もなく占い師の元へ戻ってしまったし。
 だから。戦争が終わったら行く宛もなくなってしまった子供を、それでも王にと迎えてくれた事に感謝した。
 紋章を権威として扱えなくても、人々は自分をきっと、愛してくれた。
 例え上っ面かもしれなくても、ここには自分の居場所があったから。
 あの時仲間だと確かに呼べた人々はもうてんでバラバラで。
 元々この街に住んでいたシュウやテレーズ達は勿論残ってはいるが、気付いたらいなくなってた人たちも確かにいる。
 そして現在もその行方が知れない人も。
 例えばゲオルグ・プライムはそれでも幾つかの噂を聞くけれど、シドなんて何処で何をしているのかなんて見当もつかないし、話にも上らない。
 こんなに時が経ってしまったら、それももう嘘のように覚えてくる。
 あんな戦争なんてなかったのではないかと思えてくる。
 けれど通りかかったノースウィンドウの城を見て、懐かしい想いがむせかえるように溢れるのだ。

 還りたい、とは言わない。むしろ云えない。
 戦争なんてない方が いい。
 なのに。
 なのに。
 沢山の仲間に囲まれた頃に。還りたい。だなんて。

 思い出したように訪ねて来るのは、トランの英雄。
 自分と同じ変わらない姿。
 前より増して愁いを帯びた目。
 自分では見えないけれど、もしかしたら自分の目もそうなっているのかもしれないなんて。
 彼を見てそう思う。
 特に話す事はない。
 それぞれの近況や、最近出遭った人や、遠くの街の話。
 彼は旅を続ける。
 それは共に戦った家族とも呼べる人達が老いてゆくのを見たくないからだろうか。
 そんな事は恐ろしくて訊けないのだけれど。

「戦争がまた始まったらしいよ」
 執務室で、大量に積み重なった書類を眺めながら彼が云った。
 淹れたばかりの紅茶は熱い筈なのに、それでも易々と口に運ぶ。
「何処でですか?」
「グラスランドの方らしい」
 微妙な位置だな、とマユキは思った。
 近いと言えば近いけれど、今自分がいる位置から見れば遠い。
 ほぼ隣接していると云えるティントは独立してしまっているので、関与する事もないが。さて。
「最近ルックには…会った?」
 どういう会話の続きなのだろうと訝しく思ったが、素直に答えて見る事にした。
「いいえ?」
「そうか」
 けれど理由は返されて来ず、納得したのかしてないのか、感情のない言葉が流れて来た。
 部屋は広いだけ空虚で何もなく。
 窓も開かれていないから空気は停滞している。
 無言だけが二人を包んだ。

 戦争が終わって15年。ルックには一度も会っていない。
 あの時自分はルックが大好きだった。
 太陽に透ける金茶色のさらさらの髪や、白い陶器のような肌。歌うように流れる詠唱の言葉。
 意地悪で冷たいのに、ふっと優しくて。
 好意を持って接したら好意を持って返って来ると信じていた。
 邪険で、煩そうに扱われても、マユキはルックが大好きで、だからルックも自分を好きになってくれると思っていた。
 何の確信もなかったけれど、そう思った。
 自分は子供だったのだ。
『ごめん』
『無理だね』
『君といる事は苦痛だ』
 渡されたのは甘い飴ではなかった。
 差し伸べられる手でもなかった。
 そこには壁しかなかった。

 だから戦争が終わっても会いに行く理由もなかった。
 そもそも何処に居るのかも知らなかったし、そして自分と彼に繋がりは ない。
 自分から投げた好き、は。彼の拒絶に跳ね返された。
 今更思い出すと思わず床に転げてしまうくらい恥ずかしい<のだが、その時の自分にはそれが精一杯で。
 やはり自分は子供だったのだと思う。
 世界の中心は自分で、小さい井の中の、蛙でしかなかった。
 それでも15年。好意はこの胸にあった。
 だって、今でも不意に名前を聞くと心が鳴る。
 ふとページを捲った文字列に、その名前の一部を見つけただけでほんの少し早くなる。
 まだ。と言ってもいいくらい。
 自分は彼が好きなのだ。

 マユキはキイと椅子をくるりと回して一息付いた。
 どんなに頑張っても書類の束は一向に減る気配がない。
 もう内容も見ずに判を押してもいいのではないかという気すらしてくる。
 けれど。
「そういう訳にもいかないよね」
 しんとした室内に、ぼそりと呟いた自分の声が、矢鱈と響いた。
 と。バサリと大きな音がしてカーテンの捲れる音がした。
 今日は風が強いんだな、などと思っている所ではない。
 侵入者か、と身を強張らせて窓を見遣ればそこに人影があった。
 マユキは更に身を固くする。
 背には赤い夕日。
 もう日暮れの時間なのだと、マユキはようやくそこで時間感覚を手に入れた。

 初見では誰だか判らなかった。
 最後に見た時より幾分か達観した翳りが見えたからだ。
 いや、けれど。自分が彼を見間違う訳がない。
「ルック……?」
 情け程度に疑問符を付けてはみるが、それは間違いではなかった。
 戦争中には有ったはずの彼の肩口の髪は今はもうなくなっていた。
 服も法衣ではなく、動きやすそうな軽装に変わっている。
 そして一番変わったのは目だとマユキは思った。
 あの時も褪めた目だと思ってはいたけれどより一層。
 全てを見透かして、もう諦めてしまったような目だった。
「久しぶりだね。マユキ」
 言葉に嬉しくなって、マユキは窓辺に駆け寄った。
 彼の風貌なんてこの際関係ない。そこにルックがいれば問題ではないのだ。
「ルック…!元気だった?」
 一瞬の間。の後。
「まあね」
 感情なく彼はそう云った。

 席を勧めてお茶でもと思ったら断られた。
 彼はこの桟の上で用件を済ませる心算らしい。
 長居をする予定ではないのだな、とマユキは少し残念に思った。
 風に吹かれてまた。カーテンがはたはたと揺らめいた。
「ずっと 君に。  …嘘を吐いて、いたんだ 」
 ぽつりと落とされた音は、何の色も付いていなかった。
 マユキは訳が判らなくて首を傾げる。
「嘘?」
「…そう。僕はあの頃から 今でも。 君が…好きだった」
 耳に届いてきた言葉は途中ですり替えられたのでは思うくらい有り得ないもので。
 驚いて顔を上げようとしたら頭を撫でられてそれも出来なかった。
 そしてその感触がなくなった時。彼はもういなかった。
 窓から落ちるくらい身を乗り出して名前を呼んでみたけれど。応えてくれたのは感触のない風の音だけだった。
 そうなるともう今のは幻想だったのではないかと錯覚する。
 自分の願望が現実になって現れたのではないかと想像する。
 だって、あれは有り得ない言葉だ。
 一方通行だと思っていたのに、いつの間にか対面だったなんて。
 幻としか思えない。
 マユキはまた、窓の外を見遣った。
 赤い空は既に、とぷりと闇にその身を浸していた。

 翌々日、トランの英雄が訪ねてきた。
 前回との間隔の短さに驚きながら、歓迎すると、しかし彼の面持ちは神妙だった。
 大概は笑顔の彼がどうしたのだろうと思い疑問を投げると、彼は重く唇を開いた。
「ルックが死んだ」
 一昨日と同じように、言葉だけ違う音に変えられたのかと思った。
 本当は全然違う事を彼は言っているのに、自分の耳にはそう聞こえたのかと思った。
 何も云えなくて頭に針が一本刺さっているようだった。
「グラスランドの戦争はルックが元だったらしい」
「何故ですか」
 疑問にするでもなく、言葉だけがするりと落ちた。
 それは今、何の意味も持たない言葉に思えた。
「真の紋章の破壊」
 どきり。とした。
 心の奥底の何かが警鐘を鳴らした。
 果たして彼の求めるものの最奥は何だったのだろう。
 自らの解放か。そして自分の解放も含んでいるのか。
 いや、それは。甘い欲でしかない。
 けれど。
「ルックは君が好きだったんだよ」
 この英雄は今更そんな事を云う。
 今更だ。その言葉は、甘いけれど遅い。

「君だけだ。ルックがあんな風に 笑うのは」
 俯いたままの自分に去ってゆく背中は見えなかった。
 ただ、扉の閉まる音だけが遠くで微かに聞こえた。
 それは別世界の音に聞こえた。

 闇がひたひたと近づいて部屋を染めてゆく。
 ゆっくりと侵食してゆくそれは、何の音もなくこの身も黒く塗りつぶしてゆく。
 とぶりと闇に浸る。
 広い部屋に今。それを払う灯りはない。
 マユキは動かず、ただ、拒絶を口にしたルックを思い出していた。
『無理だね』
 それは誰の為だったのだろうか。

「嘘吐き」
『……  …』
 闇が赤く染まった。


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