うん。僕は知っていたよ。
君の中にあるその影も。
そしてそれが、誰かということも。
うん。僕は知っていた。
けれども君はいつだって隣にいてくれたから。
僕は軽い眩暈と、錯覚と、欺瞞に包まれて。
君の隣で目を閉じた。
自分に嘘を付く為に。
『久し振り』
ふっと急激にその言葉が脳裏に過った。
閉じた窓の桟がベッドに浮かび上がる。窓の向うの光におされながら。
光の正体は細い三日月。
まるで誰かの鋭利な爪で引っかかれたような、黒い闇に開いた白い傷口。
自分の心についた細い傷口。
耳を澄ますと隣から息が聞こえた。定期的な、音。
その音に少し心が溶けるけれども、やはり心の闇は消えてくれない。
どうしても響いてくるあの音。忘れようとしても、それは焦げ付いて消えてくれない。
彼がこうして隣で寝ていてくれても。無防備な寝顔を晒していても。
口付けを交わしてくれても。
知らずに涙が零れた。
哀しかったんじゃない。悔しかったんじゃない。何故だか解らない。
『久し振り』
バナーで出会ったのはトランの英雄と呼ばれるその人だった。
ここからずっと南にあるトラン共和国で起こった戦争で、今の自分と同じリーダーという立場にあったその人。
いつか誰かから話を聞いて、自分が憧れてやまなかったその人。
いつか会いたいと思っていたその人。
けれどそれが自分をこんなにも闇に落としてしまうとは思ってもみなかった。
付いて離れない言葉。
滅多に表情を出さない彼が、滅多に自分から口を開かない彼が、自分の目の前で言った。
自分にだけ解った、少し上がった口の端。
少し高かった声のトーンは震えているような気もした。
『久し振り』
月が流れてきた細い雲に隠れた。
覆われて見えなくなった光。
その代わりとでもいうように白いものが黒い空から落とされる。
闇に浮かび上がる雪。
マユキは隣の彼を起こさないようにベッドから抜け出した。
目指すのは屋上。降ってきた雪を迎えに。
いや、もしかしたらそのまま埋まってしまいたかったのかもしれない。
この醜いような感情が雪のようにまっさらになって欲しかったのかもしれない。
例えそれがなし得ないことだと解っていても。
極力音を立てないようにと静かにドアを閉める。
そこまでずっと後ろを振り向かずに。
マユキの顔は、濡れていた。
『久し振り』
屋上の空気はリンとして冷たかった。
寒いというよりは刺さるように痛い。それはこの空気さえも自分を責めているようで。
薄着の自分に雪が触れた。じんわりとゆるく溶けていく。
ふっと吐いた息も白く溶けていく。
このまま消えられたらいいのに。
ずっとずっと彼が自分を好きになってくれないなら。
好きなってくれる確証もないなら。
今の状態がすり替えで、ただの馴れ合いなら。
一時だけ、それでもいいと思った時がある。
自分がここにいて、彼がその隣にいてくれるなら。
けれど彼の目が自分を通り越してその向うを見ていることに気付いた時、それも出来なくなった。
どうしてそれが自分じゃないのだろう。
『久し振り』
ガッ。
マユキは自分の腕を塀の剥き出しの石に擦りつけた。
すぐに擦れた腕からうっすらと血が滲む。
けれどそれだけではすまない。
何回も何回も、マユキは腕を傷つけた。
皮が破れて向こう側の世界が見える。
血の量は断然に多くなってだらだらと腕を流れては落ちた。
このまま。このまま消えてしまえたらいいのに。
こんな傷は痛くない、この心に比べれば、受け入れられない自分の心に刺さった棘の痛さに比べれば。
物理的な傷なんか痛くない。
自分なんかいなければ良かった。彼と会わなければ良かった。
こんなにも好きなのに。彼は自分にあの人を重ねているから。
こんなに哀しくなるなら。
『久し振り』
「何・・・してるのさ?」
背後からの声に驚いてマユキは身を硬くする。
だって彼はここにいちゃいけない。いないはずの、人。
今はあの部屋で静かに寝てる筈の人。
いや・・・。自分の為にここまで追いかけてきてはいけない人。
だってそこに。
二人の間に。
何も感情はないから。
あるのはただの。一方通行。
自分からの、好き。
『久し振り』
「別に・・・」
そう言って慌てて隠そうとした腕はもう遅くて。
うっすらと積もっていた雪は鮮やかな朱い華を散らしていた。
「だったらそれは何?」
「何でも・・・ないよ・・・」
真摯な眼は今の自分にはとても辛くて、マユキは横を向いた。
その眼は自分に向けられるべきではない。
だから・・・。
「何でもないわけない」
グ、と引っ張られた腕が露になって、そこを中心に激痛が走る。
止まらない血は更に雪を染めて。
鮮やかな華は咲き乱れた。
「何で・・・ッ・・・こんな・・・・・・」
悲痛な目でその傷を見られても何も嬉しくない。
それは間違いだから。気の迷い?そうじゃなくて。道を誤ってしまっただけ。
『久し振り』
「違うよ、ルック・・・・・・」
その目は僕が映るべきではない。
その唇も僕の名前を呼ぶべきではない。
君が目指してた先はきっととても暗くて。僕はその横道に少しの灯りを点してしまった。
君の目指すものを蜃気楼の奥に隠してしまった。
ごめんね。ごめん。
だから君は元の場所に戻って いいよ?
マユキは手を伸ばしてルックの髪をゆるりと掴んだ。
肩口は朱く染められた。
そして重なる唇に、鉄の味。
最後のキスはとても甘くて。マユキはもうこれで。もうこれでいいと、そう。
思った。
「泣かないでよ。ルック」
「泣いてるのは君だよ」
「ルックをカガリさんに返す・・・・・・ね?」
「何を・・・!?」
言ってるんだ?そう言おうとしてももう。
ルックの指は間に合わなかったから。
応えてくれる相手はもういなくなってしまったから。
『久し振り』
マユキは背にしていた石塀を腰を軸にして回り、宙を飛んだ。
羽が生えても片翼じゃあ、飛べない。
折れていたらもう飛べない。
最初に地面に付いたのは頭で。もう。
雪が沢山の華を鮮やかに彩った。
綺麗な綺麗な 華。
「マユキ――――――!!!」
風が凪いで音は雪に吸い込まれた。
彼の呼ぶ声は弔いの鐘のように寒空にリンと響いた。
悲痛に高い声だった。
『久し振り』
戦争が終って良かった。
そう笑って云っていたのに。
ルックは差し出せなかった右手を左手で包んだ。
解らない。何が起こったのかが解らなくて。
彼が。そこに今いた彼がどこへ行ってしまったのか。
いつも笑ってた少年。
義姉も親友も死んでしまったこの城の主だった少年。
最後に云っていた言葉は何だった?
気付かれていた自分の心。身代わりにしていた自分への制裁がこれなのか。
だったらそれは、あまりにも哀しすぎる。
そうやって死ぬのは彼じゃなく本来なら自分。
それなのに。いなくなったのは彼だった。
彼だった。
『久し振り』
ルックは崩れた少年の元で膝を付いた。体は完全に壊れていて、欠けた頭にだらだらと流れる血。
不自然に折れ曲がった体の形。
それでもルックはその唇に口付けた。
優しく甘く。口付けた。
「ごめん・・・苦しくてごめん」
体をキツク抱いても返ってくる言葉もない。この目も開く事はない。
目が霞んでいくのが邪魔で、ルックは目を閉じた。
マユキを抱いたまま。
君が誰を好きでも僕は君が好きだよ。
けれどそのままの目で見るのはとても辛いから。
逃げてしまう僕を許して下さい。許して下さい。
僕はこれから風になって。君の傍にいるから。君の眷属になって生きて行くから。
もうこの世に生は要らない。
永遠に生きていく彼の元でずっとずっと生きて行くから。
それなら離れ離れになることもないから。
逃げてしまう弱い僕を許して下さい。
許して下さい。
そしてこんな形でも君の傍にいることを喜んでしまう僕を。
許して下さい。
数日後。
戦争の終結ですっかり閑散としてしまった城に一人の少年の影。
彼は城に入ろうとして足元に咲く朱い花に気付き足を止める。
鮮やかな朱い色の小さな花。
「へえ。冬に赤い花なんて珍しいな」
彼は膝を落としてその花を覗き込んだ。
甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
「ねえ。ルックがどこにいったか知らない?」
すいと風が吹いて、彼の碧のバンダナが揺れた。
風になってルックの傍にいることを許して下さい。
許して下さい。
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