夢を見るもの

 全ては混沌として限りなく不快だった。
 永遠の命の先には何も見つけられなかった。
 そこには闇か、白か。
 どちらにしても自分には関係のない。
 さして興味もない。
 空ろで空洞で、色も影も、そして光もない世界だ。
 そしてそこに何かを求めて何になる?
 もうそこに何も存在していないと既に知っているのに。

 こんな世界に。
 生きてなんていられない。

 カチャリと陶器のぶつかる音がした。
 は、と気付いて目の焦点を合わせる。
 手元を見るとなみなみと注がれた紅茶がカップの中で水面を揺らめかせていた。
 どうやら零れてはいない。
 ルックはほっと息を吐いて手にしていた茶器を置いた。
 ベッドの方を見遣ると彼は、風に煽られてふわりと持ち上がったカーテンに包まれて窓の外を見ていた。
 どこか頼りない子供の目。
 どこにでもいる、少年の目だ。
 しかしそれが戦場では射貫くような眼光を放つ。
 恐ろしいまでに透き通った光のようなもの。
 それを見て震えを覚えないものはいないだろう。

 ルックは彼の様子を見てまた、ふうっと息を吐いた。
 どうやら今の失態は見られてなかったようだ。
 トレイの上に二人分のカップを載せて、ルックは彼の元に歩んだ。
「ほら、お茶」
 風がカーテンを持ち上げるのに重なるように。
 彼はこちらを向いてふわりと笑んだ。
 それはなんて。
 なんて光に満ち溢れた笑顔なのだろうかと思う。
「ありがとう、ルック」
「ベッド汚さないでよね」
 そう云いながらもルックもベッドの上に上って。
 窓際のマユキの隣の。
 そのカーテンの中に収まった。
 また風が吹いて白い布が持ち上がる。

 陽光が眩しくルックの白い肌を照らした。
 少し目に痛い気もする。
 太陽と混ざった緑の匂いが吹き抜けて、絡まりのない髪を揺らす。
 子供の声がした。
 獣の吼える音も聞こえる。
 もしかしたら本当はとてつもなく綺麗なのかと思う。
 けれど自分には世界は灰色にしか見えない。
 現状がどうあっても自分には未来の形しか捉える事が出来ない。
 重くて歪んでひずんだ世界。

 隣でふうと息が漏れた。
 どうしたのだろうとそちらを見遣ると、彼はじっとこちらを見ていた。
 が、目が合うと慌てて視線をソラヘ飛ばした。
「何?」
 一瞬のように彼の顔が赤く染まる。
 それがとても可愛く思える自分に苦笑する。
 いつのまにか罠に嵌められていたのは自分なのかもしれないと。
「な・・・何でもない」
 気恥ずかしげに彼は手の中のカップを唇に当てた。
 けれどルックの腕はそれを許さなかった。
 くんとその首に腕を回して、彼に額に口付ける。
「何?」
 こうされたらマユキがもう何も出来ないのを知っているから容赦ない。
 気になる事があるなら云ってくれれば良い。
 それについて自分は何の深追いもしないだろう。
 どうなってもそうなっても全てさらりと流れる砂のように。
 だた体の中を通り過ぎてしまえば傷つくこともない。

 マユキの顔は更に染め上げられた。
 カップを受け皿に戻すと、両手で顔を包んだ。
 熱を吸い取らせるかのように。
「あのね。ただ」
「ただ・・・・・・?」
「ルックが本当に綺麗だなと思っただけなんだ」
 ピクリと体の中で何かが跳ねた。
 ルックには綺麗だという言葉が自分への賛辞だとは思えなかった。
 むしろ。
 むしろまだ汚い醜いものだといわれる方が馴染むようにしっくりくる。
 綺麗だと言われるのは造られたこの顔、造詣、容姿。
 自らが望んで得た生ではない。
 核を封じ込めるために似せて造られた容れ物。
 造られたもの。
 一番嫌いな人と同じ貌。
 だから綺麗な顔だと言われるのがとてつもなく嫌いだった。
 その綺麗な顔を持つのは自分ではないから。
 それは決して自分のものではないから。

「それって。顔の事?」
 睨むようにそう云うと彼はこちらが驚くほど、きょんとした顔をした。
 何に驚いているのかが解らなくて場が一瞬白けたようにも思えた。
「あ、勿論顔も綺麗だと思うよ?」
「顔・・・も?」
「うん。でもね。ホラ、今日も風がとても綺麗だよ」
 指を指されて見上げるとまたカーテンが頭上で円を書くように浮かんだ。
 言っている意味が解らなくてルックは曖昧な返事をする。
 けれどその要領の得ない話し方に自分でも気付いているらしく、マユキは頭を掻いて冷めたお茶を飲んだ。
「ええと。風がとても綺麗で、その風がとても似合うからルックがとても綺麗だって事なんだけど・・・解る?」
 悪戯が見つかった子供の頼りないような目で見上げられた。
「綺麗なものには綺麗なものしか似合わないと思うんだ。ルックには自然の綺麗が一番よく似合うよ。だからルックは綺麗だなって」
 目の前の彼が爪弾く言葉がまるで光を放って弾けるように思えた。
 何て。
 何てこの存在は愛しいのだろうか。
 けれど彼の言葉を借りれば、自然の中に溶け込んで一番綺麗なのはむしろ彼の方だと思う。
 自分のように造詣されたものではない。
 自然に出来て、そして自然に還れるもの。
 その事が羨ましくもあり、彼ならば許せるとも思った。

「顔も勿論好きだけど、一番好きなのはここかな」
 そう云って自分の胸を指された。
 そしてにこりと笑う。
 ルックは思わずその手を引いて、彼を懐に収めた。
 どこにも行けないようにその背中に腕を回して、頬に口付けた。
 息が当たるほどの近距離の目がかちあう。
 ずっと心の奥を這っていた言葉を吐き出すように落とした。
「僕は生きていてもいいと思う?」
 世界は闇にしか見えない。
 人の顔は空洞にしか見えない。
 法則に反して生を受けた自分は生きる資格があるのだろうかとずっと考えてきた。
「勿論、生きていて欲しいよ」
 彼がやわりと笑んだその向こう。
 一瞬だけ世界がとてつもない鮮やかな色を見せた。
 碧の風。蒼い空。太陽の色、その息を吸い込んだ大地。濡れた花、限りなく透明に近い光。
 今まで見たこともない、世界の全てをここに纏めてしまったかのような色。

 泣く事なんて自分には出来ないと思っていた。
 いやむしろ、泣く機能なんてないと思っていた。
 けれど今この頬を伝うのは。
 明らかに目から零れた水滴だった。
「ルック。どうしたの?」
 突然の事に驚いたのか、慌てたような声が聞こえたけれど。
 構う事なく腕の中の彼を更に抱きしめる。
 ああ本当に。
 本当に君に会えてよかったと思う。
 君を好きで良かったと思う。
 まだ君がいるうちは生きていこうと思った。
 色のない世界のその中で鮮やかな色を自分にくれる君を護るために。
 護りたいと思うために。
 まだこの世界で生きていたいと思った。

あと少し、また。
眠っていてもいいですか?
まだ夢を見ていていいですか?
彼が見せてくれる鮮やかな世界を。
まだ暫く見ていてもいいですか?

 君が笑ってくれるその瞬間。
 世界は鮮やかな色に包まれる。
 それが例え一瞬であったとしても。
 君がまだここにいるうちは。
 夢をみていようと思った。

 ふわりと風が吹いた。
 白い布が持ち上がり二人を包む。
 差し込んだ丸い光。
 それは何て暖かくて柔らかな。

 ああ、貴方に。
 光あれと。

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