赦しの証

誰よりもたったひとつ赦せないものがある
誰よりもたったひとつ赦せるものがある
誰よりもたったひとつ
大切なものがある

「何で許せるのさ」
 椅子に座った途端、ごろごろしていた疑問を吐き出した。
 ずっと腹の中で鉛のように重く浸っていたものだ。
 どこにも消化出来ず、飲み込んだ筈なのに戻ってきてしまった。
 紅茶を淹れていた彼の手がぴたりと止まる。
 赤い液体はカップの中でゆらりとゆらめいた。
 ただ、暖かそうな湯気だけが、自分の視界を薄く遮る。
 彼と自分の間に白い幕が引かれたようだ。
 見上げたまっすぐな目は、どこかこの奥を見透かすようでルックは次の言葉を言えず黙った。
 ちくり、と針が刺さったように感じる。
 それでも吹きだした風が真っ白なレースのカーテンを持ち上げて、この部屋のどこか濁った空気を攫っていった。
 代わりに、とでもいうように新しい空気は少し、外の匂いを含んでいる。
「キバ将軍の事?」
 相手が聡いと話が早い。
 馬鹿を相手にしていて一番疲れるのは話が通じない事だ。
 けれどもこの相手はこちらの数少ない言葉でもその中身を理解してくれる。
 一見ぼけぼけした外見とは裏腹に非常に頭が良い。
 流石はリーダーと云うべきか。

「スパイだったらどうする?」
「そんな余裕ないと思うけど」
「何処に確証があるのさ」
「…ごめん…。わかんない。勘とかそんな確かじゃないものが証拠かな」
「…なにそれ」
 沈んだ黒い言葉が赤い紅茶にぽたりと落ちた。
 ゆっくりとそれは底へ向かい沈んでゆく。
 無言のまま彼はすとり、と椅子に座った。
 風が招き入れた新しい風は、もう、すぐに元の濁った空気に変わる。
 初めから何でもなかったかのように。
「短絡的だと思わないの。寝首でも掻かれたらどうするつもり」
 自分は正当な意見を言っているはずである。
 なのに相手に押し黙られるとこちらが悪い気がするのは何故だろう。
 それは彼の性格故か、その太陽の子を思わせる程の笑顔を消し去ってしまったからか。
 もしくはその両方か。
 城内で見かける邪気のない笑顔も、戦場での鋭利で貫くような目の光も、自分にだけ見せる空気の緩みも、今の彼には備わってはいない。
 ただ、気落ちした昏い表情だけだ。
 紅茶はきっと黒く冷めてしまっただろう。

 一言で云うなら心配なのだ。
 この眼前の彼は自分の価値というものを全く理解していない。
 自分の存在というものがどれくらい人々を左右しているかを理解していない。
 自分がいなくなったら、消えてしまったら、死んでしまったらどれくらいの影響がこの城内へ響くか。
 どれくらいすぐにこの軍が壊滅してしまうか。
 そんな重要な事を彼はきっと理解していない。
 だから容易にこんな事をしてしまうのだろう。
 あっという間に積み上げられたものは瓦解して飲み込まれてしまう。
 初めからそんなものなかったかのように流されて跡地はきっともぬけの空だ。
 負け戦は嫌いだ。
 いや、そんな事よりも。
 そんなうわべの建前の理由よりも。
 ただ、彼がいなくなる事が怖いのだ。
 自分の、この自分でさえ思う歪んだ性格が、彼の前では突起に金槌を打たれたように丸くなってゆく。
 彼といると新しい世界が毎日のように見える。
 訳の解らない収納しきれない感情はもてあますけれど、初めて見る輝くような世界は手放しがたい。
 輝くもの、というものを初めて見たのだ。彼の中に。
 空気が光って見える、なんてそんな事。体験したものにしか解らない。
 得がたい上に手放しがたいもの。

「でも、さ。僕は信じるだけだ」
 闇に落ちた瞳に光が戻った。
 吐きかけた息を飲み込む。
「何も出来ない僕には信じるしかきっと出来ないんだ。それに、きっと僕が死んでもシュウさんが何とかしてくれるよ」
「…っ。冗談でもっ…死ぬとか云うな」
 カチャン、とカップが床に転がった。
 液体が零れ落ちて、赤く赤く広がる。
 光の戻ったその目が少しだけ見開く。
 それもその筈だ。
 自分のこの、稀に見る激昂は何処から来たのだろう。
 それが自分でさえも解らない。
「…そうだね」
 落ちたカップを拾い上げながら彼は静かに云う。
 そして。
「ルックが守ってくれるから、僕は死なないよ」
 笑顔で云える彼はなんて強いのだろうか。
 彼を殺させはしない、とか。彼は自分が守るから死なない。とか。
 そんな毎回の如く繰り返す誓いのような言葉は、この弱い心のせいであっという間に不安に崩れ落ちる。
 全てを背負う覚悟が出来ていない。結局きっと、弱いのは自分なのだ。

「それに、僕にだって赦せないものがたった一つあるよ」
 世界の空気がふわり、と優しくなった。
 先ほどまでの淀んだ暗い空気は、風もないのに吹き飛ばされた。
「そしてルックは僕のことだけ赦せればいいよ」
 ああ、やはり。
 世界はなんて輝くのだろうか。
 彼の前では太陽さえも霞んでしまう。
 それなら。それならば。
 きっと自分は彼以外誰も赦さない。
 どんなものでも赦しを与えるのが彼の役目だとするならば。
 彼の代わりに全てのものを赦さず、心に留めておく。
 そして溜め込んだ全てを彼はきっと赦して浄化してしまうのだ。
 そんな彼を自分はきっと赦すのだろう。
 それで彼の抱える世界が少しでも軽くなるのならば。
 彼を覆う闇が少しでも晴れるのならば。
 ルックは少し椅子を引いて立ち上がり、彼の右目の下に口付けた。
 軽く、軽く。簡単な誓いを残すように。
 けれどマユキは驚いて目を開いた。
 それが可笑しくてルックは少しだけ笑った。
「それじゃあ、僕はもう君の事しか赦さない」
「…うん」
 勢いに押されてそう返事をした。
 笑ったルックはなんとなくだけど嬉しそうだ。
 もしかしたら自分は大それた事を言ってしまったのではないかとマユキは後悔したがもう遅い。
 けれどまあ、それはそれでとても嬉しい事だ。
 だって、ルックの中で自分は特別になる。

 誰よりもたった一つ赦せないものがある。
 それは君を苦しめる唯一のものたち。
 きっと自分はどこまでもその赦せないものを赦せないだろう。
 けれど、彼はそんな自分だけは赦してくれる。
 とても我侭で自分勝手な条件だけれど、それでいい。それがいい。
 それが自分から彼への特別な思いの証であって。
 それが彼から自分への特別な証になるからだ。

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