insomnia

「ちょっと王子サン」
 軍義の間から出る前に、その声が呼び止めた。

 今日の会議はつつがなく終わり、言われた目的を成す為解散しようとしていた時だった。
 ざわりと流れていた空気が、その声で止まる。
 王子は何事かとそちらを向いた。
 金色の目がまっすぐにこちらを見ていた。
「お前、最近寝てねぇだろ」
 金の瞳はそう云って、こちらにずかずかと近づいてくる。
 いつもなら嬉しい至近距離だが、今日のそれは嬉しくない。
 だってその言葉は図星だったから。

 ユエは最近ろくに眠れていなかった。
 いや、最近という言葉には少しの御幣があるだろうか。
 実際にはもう、この戦争が始まってから、という言葉が当て嵌る。
 夜になれば眠くなるのだが、布団に入ってしまうと目が覚めてしまうのだ。
 そして醒めてしまった目は更に冴えてしまって。
 空が白み始めてようやくまぶたが落ちる事がしょっちゅうだ。
 けれど次の瞬間、けたたましい音と共に目覚めがやってくる。
 時間は止まっていてはくれない。

「あらぁ、王子。そうなんですか?」
 ルクレティアの声に、王子は何も云えず頷いた。
 だって、一応はリーダーなのに、睡眠不足なんですなんて、明瞭肯定出来るはずもない。
 けれどこの場で嘘を吐くことは出来そうもなかったから。
 何せこの影武者は自分の事をよく見ている。
 それは彼が影武者、という立場だからなのだろうか。
「軍師サン。オレが行くのはヤベェの」
 身代わりが身代わりらしく、代役をかってでた。
 ユエは驚いて小さく声を上げたが、誰にも拾われず空に飛んだ。
「そうですねぇ。…いえ、ロイ君でも大丈夫でしょう」
 その一言で王子はお留守番。今回の件はロイに任せられる事になった。

「ロイ」
 軍義の間を出てすぐに声を掛けた。何故かそうせずにはいられなかった。
「何で…」
「フラってる王子サンなんて見たくねぇんだよ。寝不足なんてカッコ悪ィだろ」
「でも」
「いーから、いーから。オレに任せとけって」
 何を云っても畳み込まれて王子は息をつく。
「終わったらちゃんと報告しに行っからさ」
 仕方なくその言葉に、うん、と言った。
 カイルやリオンと共に出て行く後姿の自分を見ているのは何故だかおかしかった。
 本来なら自分がいる場所に違う人がいる。
 なのにそれは自分と同じ格好で、同じ顔で、同じ後姿で。
 鏡の向こうの世界を見ているような気分だった。

 昼間から堂々とベッドに横たわっていたって、眠れる訳もない。
 空はこんなにも明るく晴れ渡っているのに。
 ユエは水差しの水を一口だけ飲んで息を吐いた。
 胃までその冷たさが感じられる。
 きゅう、と痛みが広がった。

 眠ると戦争の夢を見る。
 累々と積まれてゆく死体の山。
 それをまとめて焼くときの厭な匂い。
 腕のないものや、足のないもの。顔のないもの。
 眠ると戦争の夢を見る。
 緑の草が、赤い染みを広がらせてゆく。
 風に血の匂いが混ざる。
 その血を吸った空が鈍く闇を滲ませてゆく。
 眠ると戦争の夢を見る。
 先ほどまで人間であったものが、動かないモノになってゆく。

 決して綺麗とはいえない、物体。
 それを作っているのは自分だ。
 その命を吸い取っているのは自分だ。

 眠ると戦争の夢を見る。
 それは一瞬にして自分から眠りをさらっていく。
 開いてしまった目はもう、閉じる事が出来ずに。
 ただ、空が明るくなってゆくのを見る事しか出来ないのだ。


 夕刻。
 空は大きな朱で塗りつぶされてゆく。
 向こうからやがて、果てしない闇が侵食してゆくのだろう。
 今日の月は何だろうか。
 今日も月は星といられるのだろうか。
 ユエは赤い窓を背にして、ベッドで本を読んでいた。
 結局何をする事も出来ず、眠る事も出来ず、そこにいることしか出来なかったのだ。
 コン、と軽く音が鳴った。
 それから音の主が、何の躊躇いもなく扉を開いて顔を見せる。
 ロイだった。
「よお」
 ユエは本を閉じ、彼を招き入れる。
 ロイは少しだけ嬉しそうな顔をした。

「ちょっとくらい眠れたっつーワケでもなさそうだな」
 自分の顔を覗き込むやいなや、彼はため息混じりにそう云った。
 やはり彼には何の隠し事も出来ないのだと理解る。
「まあね」
「っはー、何でだろうなあ」
 自分の事ではないのに彼は何故こんなにも悩んでいるのだろう。
 それは彼の彼たるせいなのか、それとも対象が自分だからなのか。
 いまいちその線が解らない。
 けれど後者なら、自分は手を上げて喜んでしまえるだろう。
「お茶でも飲む?」
「ん。っつかお前またこんな本読んでんの」
 暇つぶしだよ、そう云ったら、こんなの読んでるから眠れなくなるんだよ、と返された。

「で、今日の結果はどうだった?」
「守備は上々だぜ。心配すんな」
「詳しく教えてくれないかな。次の時心配だから」
 その願いに彼は容易く答えてくれた。
 彼はやはり演じる、というか違う誰かになるのが好きなのかもしれない。
 その時誰がどういう風に云ったか、どう動いたのか。
 彼が怒ったとか、彼女が笑ったとか。
 まるで自分がその場にいるような錯覚を覚える程に。
 彼は事細かに説明をくれた。

 けれど。

「…王子サン?」
 話の途中で肩がかくりと重くなったのにロイは気付いた。
 そういえば先ほどから隣の反応は希薄になっていたような気がする。
 話す事に夢中で、あまり気にはしていなかったのだが。
 横を向くと王子はすっかり寝入ってしまっていた。
 話の途中で寝られてまうことは肩を落とすことだが、しかし。
 自分の隣で寝てしまうという理由を考え、ロイは笑顔になる。
 それはきっと、自分には気を許せるからだと。
 自分の隣だと、きっと彼を取巻く闇は薄くなるのだと。
 ロイは彼の編まれた髪を解いて、そっとベッドに寝かせてやった。
 闇を払う事は出来なくても、少しでも薄くする事が出来るなら。
 自分がいることで、彼に迫る闇がどこか遠くに身を潜めてくれるなら。
 こんなに嬉しい事はない。

「おやすみ」
 耳元でそう云って、そこから去ろうとしたのだが。
 服の裾が引っ張られて苦笑する。
 その先はユエがしっかり握っていた。
 そしてロイにはそれを外す理由なんてなかったから。
 同じベッドに潜り込んで、ユエの隣に収まった。

 自分がここにいるなら、彼の目が次の瞬間開いてしまう事もないだろう。
 厭な夢が彼に迫り来ることもないだろう。
 黎明の空をずっと見上げていることもないだろう。
 鳥が高く鳴く頃、二人で共に起きればいい。
 それから一日を始めればいい。
 ロイは、ユエの頬に軽く口付けて、自分も瞼を閉じた。

 おやすみなさい。
 ゆっくりと。



インソムニア=不眠症です。

こっちはシリアスバージョン。

もう一個ほのぼのバカ話もありますので。いずれ。

ロイの隣でだけ眠れる王子に萌え(笑)

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