ただ、消えない事を願った
その存在がなければ自分も存在しないから
きっと、存在することも赦されないから
深夜。
何の音もしない城の外を、ロイはただ見ていた。
セラス湖の水は音を立てることなく静かに滑る。
城自体、防音効果が完璧になされているため、何の音も聞こえず。
まるで。
まるで世界に一人きりのような錯覚を覚えた。
いや、そんな錯覚なら今までにもあった。
暗闇にたった一人きりで立っているようなそんな錯覚。
あの時のそれは、もしかしたら錯覚などではなかったのかもしれないが。
ふと、視界の隅を光が過ぎった。
それは意思を持つように、本塔から船着場へと向かう。
ロイは無意識に舌打ちしてその光が向かう先へ走った。
その光の主が誰かなんて解っていた。
けれど何故自分が走っているのかは解らなかった。
彼はいつも消えてしまいそうだ。
完璧に手を掴んでおかなければふとした瞬間にいなくなってしまいそうだ。
儚い銀色の髪。
憂いを含んだ長い睫も。
その綺麗な笑顔と一緒に消えてしまいそうだ。
例え今現在のこの状況が、彼にそうさせる事を抑止させていたとしても。
自分は彼に似ていると言われた。
身長は勿論、声、顔、全てにおいて。
だからこそ彼の顔に泥を塗り、だからこそここで彼の影武者をし。
だからこそ彼と共に生きている。
けれど、ロイは自分と彼を似ていると思ったことはない。
よく見分ける術として言われる金色の目は勿論だが、自分は彼のように柔らかく笑む事なんて出来ないし。
全てに対して慈愛を持つなんて出来やしない。
武器の使い方も、話し方も、なんなら顔だって、ぱっと見の印象が同じなだけでよく見れば違うのだ。
ランタンの光が蹲る場所に辿り着いたとき、彼は草むらの中で躯を小さく抱えていた。
風に晒された背中はとてもこの城を一つ背負うそれには見えなかった。
だからロイは一瞬彼に声を掛けることを躊躇ったのだが、けれど。
きっと今、彼に声を掛けられるのは自分しかいないと思ったから。
「王子サン」
言葉はまるで自分の声でないくらい小さくて、風でも吹かなければ彼には届かなかったかもしれない。
けれどもその声は彼に届き、彼はゆるりとこちらを向いた。
「……ロイ」
彼はやはり消えてしまいそうだ。
儚い目も、薄い色の肌も、長い髪も。
全て消えてしまいそうだ。
ロイはどうする事も出来なくて、ただ彼の隣に腰を下ろした。
さわり、と風が頬を撫でる。冷たくも暖かくもない風。
時間はただ、二人を囲んで流れた。
ロイはただ、彼の隣でじっとしていた。
何も出来なかった。
声を掛けることも、その顔を見ることも、背中に腕を回すことも。
「ロイは僕の前から消えたり…しないよね」
水面に何かが跳ねたように唐突に彼が闇を落とした。
とてつもなく痛い、笑顔だった。
「あのオバサンの事か?」
けれど彼は頷きはしなかった。
ただ視線をこちらから水面に移しただけだった。
終わるはずの戦争がただ一人の女性の為に終わらなかった。
最後にしようとした戦が、彼女の為に最後にならなかった。
奪えるはずの女王は、その人に連れ去られてしまった。
そして彼女は彼の親族だったのだ。
人を信頼すると言う事はよく判らない、とロイは思った。
ましてや、信頼する人から裏切られる心境もよく判らなかった。
だって、信頼した事なんてないから。
裏切られた事もないから。
生まれたときからずっと独りだった自分には、何もなかったから。
けれど例えばもし、この場から彼がいなくなって。
例えば彼が自分を欺いたとしたら、どうだろう。
自分が、彼を陥れるとしたら、どうだろう。
……。
…………。
………………。
ロイの伸びずにいた腕が、彼の背中にようやく伸びた。
「ロイ!?」
驚いたような彼の声が聞こえたがそんな事構いはしなかった。
「消えねぇよ!ぜってー消えねぇっ」
「……」
「オレの全部、オマエに預けてンだ!消えるワケねぇだろ」
驚いたままの彼の肩を掴んで更に云った。
「オレを信じろ!」
自分でもありえない言葉だと思った。
「山賊を信じろと言われてもね」
微かに笑った事に言葉の意味よりも嬉しくて、ロイも思わず笑った。
「ありがとう。ロイ」
「解ったらさっさと寝ろっ」
「そうだね、ロイも寝る?」
「おう。もーいい加減おせーからな」
ロイは立ち上がって大きく腕を上に伸び上げた。
それに倣ってか、彼も立ち上がる。そして膝をぱたぱたと叩いた。
「それじゃあ、一緒に寝ようか?」
「ぜってーイヤ」
それだけ残して踵を返し、ロイは塔へ歩を向けた。
彼がむくれたのが背中から解った。
けれど、ザッと草が鳴って。
「じゃあ、手だけでもつないでよ。消えられたら困るし」
そう云われて腕を取られた。
塔までの距離はほんの僅か。
これくらいなら理性はきっともってくれるだろう。
隣の彼はきっと知らない。
繋がれた手のひらから今、血液が全て逆流している気分になっている事を。
手のひらが今一番熱い事を。
きっと隣の彼は知らないだろう。
彼がいるならきっと自分は消えない。
彼がいるからこそ、自分は消えない。
太陽の下に影が出来ないように。
彼がいなければきっと、自分もいなくなってしまうに違いない。
ロイは無意識に繋いだ手に力を込めた。
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