君がすき

不安に思うことならいくらでもあった。
自分が想う彼の、その視線の行く先とか。
彼の足が向かう先とか。
気になる事なら、いくらでもあった。
彼の心中を埋めている人影だとか。
彼が気にしている彼女の存在とか。


「こんにちは、殿下。今日も医務室ですか?」
 階段を降りるとルセリナにそう、声を掛けられた。
 ユエはにこりと笑んで「ああ」とだけ云った。
 窓もなにもないこの地下の道は空気が停滞しているようだ。
 けれど何の不快も覚えないのは、この塔の材質のせいだろう。
 どこのものとも解らない。シンダルの遺跡。
 遥か昔に栄えた、測り知れない程高度な文明を持つ民族の。

 ユエは医務室の扉の前で逡巡した。
 彼は今日もいるのだろうか。
 いたらいたで予測が当たって嬉しいのだが、それはそれで複雑なのだ。
 ここにいるということは、転じて彼女に会いに来ているという事になるのだから。
 自分の想う彼の視線の向きは彼女にあると言う事になるのだから。
 けれど扉を開かなければそれは始まらない。
 ユエは軽く口腔の息を吐いて、手をゆっくりと伸ばした。
 いつも感じる事だけれど、何故だかこの扉は日々重くなっている気がする。

 ああ、いた。

 予測が当たってユエは軽く落胆する。
 心の中に何故か黒い澱が溜まって行く。
 視界に入る金茶色の髪。
 彼はベッドの横に座り、ただ、黙ったままで。
 ベッドに横たわる彼女の隣に彼の姿。
 何故だろう、それは。
 まるで一枚の絵のようで。
 何故だろう、それは。
 決して踏み入れてはいけない聖域のように思えた。

「ああ王子。今日もご苦労様だね」
 シルヴァ先生の声で我に返り、ユエはとりあえず一礼した。
「様子はどうですか?」
「ちゃんと寝てるよ。あの子は大丈夫さ」
「ありがとうございます」

 ようやく現実世界に引き戻され、かつり、と一歩だけ歩を進ませた。
 その音に気付いたのか彼がこちらを向いた。
「王子サン」
 その顔を見た瞬間に。
 ああ、もう駄目かもしれない。
 この心の中で溜まってきた黒い霧は行くところなくふつふつと増えてしまっている。
 ああ、もう駄目かもしれない。
 今にも黒い澱が、口から流れ出して彼を縛り付けてしまうかもしれない。
 けれどそれは爆発させてはいけないものだ。
 ここで吐き出してしまってはいけないものだ。
 ユエはギリギリの糸を必死に掴み、彼の元へ近づいた。
 そしてその腕を取り。
「ちょっと来て」
 返事も聞かずに引っ張り、彼の顔も見ずに出口に向かった。
 後ろで喚く声も、シルヴァ先生の牽制の声も何も聞こえなかった。

「ったく、何だよ!?」
 扉から出た瞬間、握った手を乱暴に離されてユエは我に返る。
 怒ったような彼の金色の目が怖くなって視線を逸らせた。
「ごめん」
 気圧されて、謝罪が飛んだ。
 どうしよう。どうすればいい?
 ここから先をどうすればいいのか。
 適当に言い訳を作るか、それとも。
 全てを承知でこの黒い靄を吐き出すか。
 けれど例えば。その先が拒絶しかなければ。
 否定が、その唇から零れたら。
 もうこの心に太陽は昇らないかもしれない。

「どーしたんだって?リオンの見舞いに来たンじゃねーの?」
 ため息を付くようにロイが云った。
 ユエはその言葉の返事をどうしたものか考えたが、小さく首を振った。
 それは違う。
 それは言い訳だ。
 彼に会うための言い訳でしかない。
 どこにいるかいつも解らない彼はここに来れば必ず会えた。
 会いたくなったらそこに行けば、必ず彼に会えたから。
「ロイはリオンが好きなのか?」
 溜まった闇の欠片がぽたりと堕ちた。

 間。
 続く。

 時間が嫌に長く感じられた。
 外界から切り離された、独特の空間にいると錯覚するくらい。
 外の音が何も聞こえなくて。
 鼓動がやけに大きく、全身で聞こえる。
 きっと今の自分は目も当てられない程、酷い顔をしているだろう。
「そーだっつったら、どーする?」
 金色の目が覗き込む。
 瞬間、闇に落とされた気がした。
 体内と体外が完璧に切り離されたように、全ての音が水の底に沈む。
 分厚いフィルターの奥に全てを追いやってしまって、何もない空間に独りで立っているような気分だ。
 推測と確実は違う。
 自分の推測はその言葉で確証に変わった。
 確証に変わってしまったら、推測はもう入る余地はない。
 全てがそれに勝ってしまうのだ。

 足元が揺れて今にも膝を付きそうになった。
 が、支えられた腕で何とか崩れずに済んだ。
「大丈夫か?んなショックだった?」
「っつ」
 彼を見ていられなくて視線を外した。
 やはり今の自分はきっと、酷い顔をしているに違いない。
「ウソだって。オレがここに来んのは、王子サンに会うためだぜ?」
 確証を否定された。
 空耳かと思った。
 本来の音が自分の都合の良い様に変換されたのではないかと思った。
 もう、どれが本当なのか判らない。

  「なん…で?」
 詰まった息から出来る限りの言葉を吐いた。
「だって王子サンいっつもドコにいんのかわかんねーじゃん。でもここなら絶対来ると思ったんだよ」
「それなら部屋に来てくれれば…」
「あの部屋行きにきーんだよっ」
 塔の真ん中にあっからさー、小さく零れた言葉もユエは取り逃がさなかった。
「でもっ!だったら、じゃあ…!」
 頭がぐるぐるしている。
 自分が何を云っているのか自分ですらも理解出来ない。
 足元は先ほどと同じくらい揺れているけれど、世界は真っ暗ではなかった。
「これから…一緒にお茶でもどう…?」
「ま。いーんじゃねぇの?」
 ようやく暖かい息を吐けた。
 ようやく足元がしっかりしてきた。


 それから連れ立ってレストランでお茶を淹れた。
「それにしてもまさか。同じ理由だったなんてね」
「ん?」
 彼はカップの液体を波立たせている。
 どうやら猫舌らしい。
「だって僕も君に会うために医務室に行ってたんだ」
 瞬間、ロイの手の中のものが滑り落ちた。
 赤い液体がテーブルに広がった。
「マジ?」



この話で一番立場のないのはきっとリオンですね(苦笑)ごめん。

文章の青さに笑えます(ははは)ルックと2主から離れられてないよ、私。

っつかもっとロイの前でだけ性格が変わる王子とか書きたいんですけど。

可愛いですよ、この王子。何とかしてください(あんたの頭を何とかしろ)

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