もう誰もどうでもいいと思っていた。
誰の顔も結局は同じに見えた。
階段の上には誰もいなくて、下ばかりごろごろしてる。
けれど自分が昇る度にそれも昇ってくれるとは限らなくて。
むしろ。
むしろどんどんその影は薄くなっていく。
闇は深く、霧は濃く。
もう誰もここより上にはいけないと思っていた。
碁会所の隅の方。
出来るだけ人の来ない場所。
周りを気にせずひたすらにただ、盤上の白と黒を見つめる。
この間の一局。
ふわりと現れてそして、ふわりと消えていった彼との一局。
それを初めから並べてみて、そして壊してまた、並べる。
認めたくはないけれどそれはやはり指導碁の形をしていて。
自分にそれを打たせるための道筋。
そして上手く誘い込まれた自分。
けれど、例え指導碁だとしてもそれは。
とてつもなく綺麗な路に見えた。
ふうと沈んだものを吐き出すように息を吐いた。
今度いつ来るのかも、どこで囲碁をしていたのかも何も聞けなかった。
いつかまたここに来てくれるかもしれないと、一欠けらの期待を乗せて。
それはとてつもなく曖昧で不安定な希望だったけれど。
だってもうどこへも行けない。
ここから動けない。
彼を知らないままで他の事なんて出来もしない。
「アキラ君、気になるの?」
丁度お茶を運んで来た市河にどうやらため息を見られていたらしい。
少しだけ気恥ずかしくて、苦笑したまま彼女を見遣る。
「ええ、まあ・・・・・・」
「そうね。アキラ君が負けたんだものね・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
アキラはまた盤上の軌跡を見つめた。
白と黒が交互に混ざりあう世界を。
「お茶ここに置いておくわね」
ふっと笑みが漏れた。
もう誰もどうでもいいと思っていたのに。
どうして彼がこんなに気になるんだろう。
それは自分より先に階段を上っていた人がいたから?
それとも。
それとも彼自身に興味があるのだろうか。
ふっとまた笑みが漏れた。
こんなに彼を気にしてる自分がとてつもなく可笑しい。
あんまり他人に興味を持たない自分にしては珍しい事だ。
他人に興味なんてない。
自分がいればいい。
そしてその自分がただひたすらに目指す道にまっすぐに向かっていればそれでいい。
そう思っていたのに。
何故だかとてつもなく気になる。
アキラは盤上の石を見つめて近くの黒石を一つ弾いた。
気味のいい音がして弾いた碁石は隣の碁石に当たりそれが重なる。
進藤ヒカル。
危うい初心者の手つきだった。
まっさらな黒い髪に、混ざるような金色。
大きくて強い目。
思い出してどこか奥がコトリと鳴った。
この感情はどこから来るのだろうか。
もう一度会いたくて仕方ない。
もう一度打ちたくて仕方ない。
この感情は一体何なんだろうか。
そういえば、と。とある顔が思い出された。
彼の名前は何て云ったっけ?
子供大会で優勝したとか言っていた彼は。
けれどその力量は期待するほど大したものではなかったし。
それに比べれば進藤ヒカルの方があきらかに自分の心をときめかせる存在だ。
もう誰もいないと思っていたのに。
いつだって誰もいないと思いながら少しの不安とかがあって。
このまま上へ登ってはいけないという声があって。
ようやくその力を振り切ってひとつ階段を上ろうとした矢先だったのに。
けれど。
何故だか心は浮いた。
それがとても嬉しいと思っている自分に気付く。
彼という存在がいて嬉しいと思う。
それはもしかしたら。
自分を更なる高みに連れてってくれる存在だからだろうか。
ふわりとまた笑みが漏れた。
そしてまたその、綺麗な道筋を眺めてみる。
彼が作った黒い路。
その線がたどる先は何なんだろう。
サワリと風の音がした。
きっとまた客が来たのだろう。
密閉された空気が少し外へ逃げて、乾燥した空気に混ざる。
流れてきた空気もまたここの空気に染められる。
足音が近づいてくる。
きっとまた指導碁の申し込みなのだろうが。
今の自分にはそれに構っている余裕すらない。
ましてやこの盤上の、この軌跡を壊す気もない。
「あ、そうだ。あたし帰り際に囲碁大会のチラシあげたんだわ」
ふっと光が灯った。
「それって今日棋院でやっているやつですか?」
「ええ。もしかしたら行ってるかもしれないわ」
思わず足が浮いた。
気付いたら椅子を蹴っていた。
「もし僕がいない間に彼が来たら引き止めておいて」
言葉もそこそこに碁会所を飛び出していた。
周りなんてどうでもいい。
ただ。
ただ彼を追いかけて。
ただ彼を求めて。
ただ。
彼に会いたいと。
向かってきた風が自分を包んだ。
視界が急に開けた気がした。
ああ、自分はずっとこれを待っていたのかもしれない。
見えもしない桜が目の前を掠っていった気がした。
この感情は何だろう。
この感情の行き着く先は何だろう。
嵐が始まる。
それはきっと。
春の嵐だ。
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