ふわふわ

冬の忘れ物
秘密に出会った僕達
あの時差し出された手に
背を向けた自分

雪が降ってくる

 

 また冬が、来る。
 目に染まるほどの蒼い空を見上げて、和谷はそう思った。
 熱を帯びて体に纏わりつく空気は、はっきりと夏を主張しているのに。
 何故か急に冬という季節を思い出す。
 それはやはり今日の電話の相手。
 これから待ち合わせる彼のせいだろうか。
 自分の中で冬という季節を連想させる駒は明らかに彼という存在なのだ。
 去年の冬、同じようにここで待ち合わせた。
 2000年の終わり。冬の最中。
 降って来た、雪。
“和谷、遠いな”
 耳の奥であの時の声が肌を撫でていった。
 情景に雪が降る。
 その言葉と共に差し出された手をどうして自分はとれなかったのだろう。
 院生の枠に収められていた時、明らかに彼は自分の前にいて。
 自分はその背中を、遥かに高いものとして見ていた。
 決して辿り付けないものだと思っていた。
 だからそれを追い越した事に気付きたくなかったのかもしれない

 あの言葉は確かに現実を自分に付きつけた。
 もう自分がそちら側でない事を。
 もう同じラインではない事を。
 だから。
 差し出された現実を受け取りたくなかったのかもしれない。
 あの時の彼はいやに儚くて。
 本当に全てを辞めて消えてしまうかの危惧を自分に与えた。
 その事に不安を覚えながらも会わなくなって、どれくらい経ったのだろう。
 連絡も遠くなり、プロとしての対局も始まって慌しく日が過ぎて。
 そしてふいにその事を聞いた。
 彼が中国に行ってしまっていることを。
 海を隔てた向こうの大陸に渡ってしまったことを。
 自分の知らない間に彼が遠くに行ってしまっていたことは確かに少しショックだった。
 いや、ショックだったというか、何となく共有していた秘密を破綻されたような気分。
 けれどやはり、嬉しいという気持ちの方が遥かに勝っていた。
 彼がまだ碁を打ちつづけているという事実の方が格段に嬉しかったのだ。
 もしかしたらまた、碁盤を前に向き合う日が来るのかもしれないと。
 そして今日かかってきた電話。
 久方ぶりに聞いた、声。
 その瞬間に全てが狭められて空白が消えてしまったかのように思えた。
 あの冬がこの夏のすぐ前にあるような錯覚に陥る。
 それは何て甘くて浮く心。

「和谷」
 その声が冬の声とステレオになって耳奥まで響いた。
 驚いて顔を上げる。
 そこに待ち人の顔を見付けて、和谷は笑顔になった。
「伊角さん!」
 中国帰りの彼は、けれど思っていたよりもあの冬の日と変わっていなくて。
 何だか安堵したような残念なような複雑な気分だ。
 自分の時間はあの日から変わっていないのに、周りの状況だけが流れていって。
 自分はまるで部屋の中でそれを眺める傍観者のような感情を少しだけ持っていたから。
 だから変わっていない彼を見て出した安堵と、それでも変わってない彼へのもどかしさ。
 それが重なる。
「なあんだ。ちっとも変わってないなア。ヒゲでもはやしてたら修行帰りっぽいのに」
 それを隠すかのように思わず言葉が滑る。
 自分に言い聞かせる言葉みたいだった。

「伊角さんこれからどうすんの?」
 店員の声を背景に和谷は何となく訊いて見た。
 店から出た途端熱を帯びた空気が肌に纏わりつく。
 一気に冬へと飛んだ心が夏の日差しに晒される。
 その疑問を聞かなくても、彼の足がどこに向かうかはなんとなく解っていたが。
 まあ一種の社交辞令のようなものだ。
「ん?」
「進藤んトコ?」
「ああ、オレなりにけじめをつけに。その事も気になるし」
 そのこととはきっと、進藤が最近すっかり手合いをサボっている事実だろう。
 続く不戦敗。
 いつか彼にその理由を聞いた事があったが、彼は何の答えも吐かずに走り去ってしまっただけだった。
 進藤ヒカルが何を考えてこんな動向をとるのか、それは自分も気になる所なのだが、けれど。
 自分はまだ隣にいる彼に伝える言葉があったから。
 思わずシャツの端を掴んでしまった。
「和谷?」
 どんな顔をしていたのだろう。
 きっと思い切り変な顔をしていたに違いない。
 けれど彼は笑って。
「どこか寄ってみる?」
「いいの!?」
 どこまで伝わったのだろう。
 あの不安定な表情から。
 彼の言葉が自分の顔から何かを掴んでのものだと思えば。
 何が伝わったのだろう。
 彼にとってはそれが子供をあやすようなものでも。
 その提案が心を大きく浮かせてくれることをきっと彼は知らなくても。
 心が冬に飛ぶ。
 情景に雪が降る。

 去年のあの道をまた歩いた。
 冷たい風は今はなく。
 停滞したぬるい空気が腕を掠めていく。
 陽炎に揺れるような景色に、冬のそれがそれでも重なって。
 雪の幻影をみるようだ。
 言葉が思い出される。
“遠いな、和谷”
 差し出された、手。
 取れなかった、自分。
 それを取り戻すために。
「伊角さん、手ェ、出してよ」
 くるりと踵を返して和谷はにこりと笑んだ。
「何だ?急に」
「いいから」
 有無を言わさないような言葉の強さに少し気圧されたように、けれど訝しげな目はそのままで。
 そろりと手が差し出された。
 あの時と変わらない手。
 その手を少しだけ見つめて。
 そして。
「えい!」
 バシンと大きな音が辺りに響いた。
「〜〜〜〜っつ――――」
 葉っぱがひらりとどこからか舞い落ちた。
 笑っている和谷の前で伊角は差し出した手を抱えて蹲っている。
 訝しく出した掌を思い切り和谷の手で叩かれたのだ。
 思いがけないその行動に、伊角は手を引く事も出来ず、痛みを受け入れてしまった。
 傍から見てもそれはかなりの痛さであろうことが予測される。音といい、反応といい絶大であろう。
「和谷!何す――――」
「伊角さん。約束覚えてる?」
 遮られた言葉に伊角の音は思わず止まる。
 振り撒くような満面の和谷の笑顔。
 それに、思わず伊角も笑みを零す。
 痛みを忘れたかのように。

「来年も頑張るって・・・奴か?」
「そうそれ!」
 あの時取れなかった手を今取っても、まだ間に合う?
「約束破んなよ、しんいちろお!」
 願いを込めるように又、和谷は小指を差し出す。
 その手を取るように、彼は緩く淡く笑んで、小指を絡めた。
「今年は絶対受かるって」
「そのつもりだよ」
 雪の中に消えそうだった彼はどうやらもういなくなってしまったみたいだ。
 あの冬の彼は夢だったのかもしれない。
 けれどあの涙は今もココロに響いている。
「にしても和谷。あの日の事覚えてるんだな」
「もっちろん」
 苦い顔をして、かっこわる、と呟く声が聞こえた気がしたけれど、和谷は聞こえなかった振りをした。
 あの涙を忘れる事はない。
 彼がこれから受けるプロ試験に受かっても、晴れやかな笑顔に隠されたあの涙を忘れる事はないだろう。

「和谷」
 言葉が上から降って倒れこんできた。
 彼の頭が自分の右肩に乗せられて、しんと風が凪いだように静かになった。
 子供の遊ぶ声も、先程までの煩いくらいの蝉の音も遠く異世界の雑音のようだ。
 心臓が鳴る。
 躯がやけに反応して動かない事に気付いて和谷は心中で舌打ちする。
 いつのまにこんなに気になって、いつのまにこんなに好きになったのだろう。
 自分の知らない間に成長してしまった彼を。
 そして呼ばれた知らない名前。
”楽平”って。誰?
「いすみさん!!」
 熱を気付かれたくなくて思い切り体を離した。
 重ねられてるような気がして嫌だった。
 ここはそこじゃないから。
 ここはそこではない所だから。
 ここでは自分を自分としてみて欲しい。
「ずるいよ・・・・・・伊角さん・・・」
 最初に聞いた名前は知らない名前。
 聞いた事もない異国の名前。
 それがやけに別の場所に居たという事実を突きつける。
 自分の知らない誰かは目の前の彼とどういう時間を過ごして。
 そして。
 彼と何があったのだろうか。
 知りたいけれど聞く事も出来ない。
「ずるいよ・・・」
 聞こえないくらい小さな声で和谷はそう呟いた。

 少し驚いた顔でこちらを彼が見ていたから。
 何とか和谷は顔を作って。
「そうだ伊角さん!オレ独り暮らし始めたんだ」
「大丈夫なのか?」
「大丈夫だって。伊角さんも遊びに来てよ、碁打とうぜ」
「ああ」
 それでも今彼がここに居るなら。
 こらからの時間を埋めてしまえばいい。
 染めてしまえばいい。
 そう思うのは例えワガママかもしれなくても。
「それじゃオレは行くよ」
「ああ、進藤に宜しく」
 和谷は踵を返して遠のいていく彼の背中を見つめた。
 葉っぱがひらひらと舞い落ちる。
 まるであの時の雪のように。
「しんいちろお!」
 大声で叫んだら驚いた顔で伊角が振り返った。
 それがおかしくて和谷は大きく手を振る。
 すると返すように彼は片手を軽く挙げてくれた。
「がんばれよー!」
 あの冬が今自分のいる夏とぴったり重なった。
 ようやく自分は時間に乗れた気がした。
 夏に身を浸すように蝉の音に耳を傾ける。
 夏が自分の身にもようやくやってきた。
 和谷は一歩踏み出す。
 そしてまた。
 冬が来る。
 埋めてしまえばいい。
 これから来る冬も。
 それまでも時間も。
 それからの季節も。
 全部埋めてしまえばいい。
 それがワガママでしかなくても。


友人である鷹冬ゆなせ様の御本「ふわゆら」で書かせて頂いた、

「ひらひら」という話の少し違うバージョンです。

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