また明日
また明日。
そう云って君はドアを閉める。
また明日。
それは何て心の浮く言葉。
また明日君に会える。

瞬間的な悦び。

「お休みをもらえませんか〜?」
 重い扉の向こうから声がした。
 高い声の特徴的な喋り方。
 いや、それがなくても一瞬で声の主は解る。
 彼女の声ならすぐに解る。
「イタリアに帰りたいんです」
 その言葉にドキリとした。
 休みなら別にいい。
 銀座や浅草や、どこか買い物に行っていても彼女はここへ帰ってくる。
 ここがそう。家なのだから。
 けれど。
 イタリアへ行くと言う事は日本にさえいないと言う事だ。
 例え空は繋がっていても同じ地を踏んでいない事になる。
 そしてそのままここへ帰ってこなくなったら。
 観測的なものの域を越えないけれどありえないことではない。
 ドキリとまた音がした。
 不思議なほどに手が震えた。
 こんな感情は初めてだ。
 この身体に今何が起こっているのだろう。
 レニはとりあえずその開けない重い扉の前で蹲った。
 立っている事が出来なかった。

 もうすぐ開演の時間だからと、楽屋の扉を叩こうとした時だった。
 演目は「ああ、無常」。
 久しぶりの舞台。
 久しぶりにまたあのライトを浴びて。
 舞台の神様に会えるというのに。
 それを見る前に自分の心はやけに深く沈められてしまった。
 いや、こんな事で落胆なんかしていられない。
 そうは思うのだけれど。
 聞いてしまった言葉はぐるぐると回って嫌な色を染み込ませていく。
「どうしたの?レニ」
 ふいと顔を上げると舞台衣装を纏ったマリアがいた。
 もうすぐ開演時間だ。
 他の役者もそろそろ集まって来る頃だろう。
 レニは何もないように立ち上がりズボンの皺を伸ばした。
「何でもない」
 云ってレニは中庭の方へ歩を向けた。
「どこ行くのレニ!?」
「フントの所」

 それからレニは開演ギリギリまで楽屋に姿を現さなかった。
 下手に織姫と口を交わしたら何を言ってしまうか解らなかったから。
 どんな冷たい言葉が口から零れるか解らなかったから。
 ギリギリに楽屋に行って、出番ギリギリまでアイリスといた。
 自分はいつからこんなにも感情を隠すのが下手になってしまったのだろう。
 昔は呼吸をするように簡単な事だったのに。
 どうして、心情を隠すのが下手になってしまったのだろう。
 心に染みた重い言葉は乾く事もなく深いところに沈んでいく。
 ずるずると嫌な音がする。
 軋んでいるのだろうか。
 どこが?胸が?こころが?
 こんなのは自分じゃないみたいでとても嫌だ。
 まだ光はあまりにも眩しすぎる。

 

 

 今日は星が綺麗だなと思った。
 舞台は成功、神様には逢えなかったけれど拍手なら沢山もらった。
 久しぶりの充実感をもらった。
 織姫の事を抜かせば今日は本当にとてもいい日だったのだろう。
 夜はとても優しい風を伴って。
 ひんやりとしていながらも暖かい空気が頬を撫でる。
 レニは中庭で一人立っていた。
 楽屋では支配人や大神達がお酒や料理を囲んで賑やかに話している。
 暫くはレニも参加していたのだが、結局気付かれないように出てきた。
 賑やかな所は未だ慣れないところがある。
 それはもしかしたら昼間の事も関係しているのかもしれないが。
 今日は月がないから星が本当に綺麗に見える。
 自分の名前である天の川も頭上で沢山の星を集めて綺麗に輝いている。
 フントは眠ってしまっているようだ。
 いつもならレニが姿を見せると喜んで箸って来るのだが、その姿が見えない。

  「どうしたですか〜?レニ」
 ビクリと体が震えた。
 後ろを向くのがとても怖かった。
 きっと彼女はいつものように眩しい服を着て、鮮やかな笑顔を浮かべているのだろう。
「レニ!」
 痺れを切らしたのか、彼女はこちらへ回ってきた。
 嫌でもその笑顔を見てしまう。
「何があったですか?今日はずっと変ですよー」
 その言葉にまたドキリとした。
 彼女にとって自分は一体どこにいるのだろうと考えた事がある。
 星組からの繋がりがあるからなのか、それとも他に何かあるのか。
 もしかしたら何もないのか。
「何でもない」
「何でもないわけないで〜す。レニの事なら何でも解りますよ」
 ぐっと、下を向いていた顔を彼女が両手を上に向けた。
 彼女の目が自分の顔を覗き込む。
「ホラ。こんなに悲しそうな顔してま〜す」
 その言葉に涙が出そうになった。

「・・・って聞いた・・・」
「何ですか?」
「イタリアに帰るって聞いた」
 その言葉を零したときの彼女の顔を見て、ああやはり、言わなければ良かったと思った。
 ザワリと木々の葉っぱが音を鳴らず。
 まるで自分の心の音がそのまま出てきたみたいだ。
 心の音が外の音に重なって訳が解らなくなる。
 眩暈がする。
「ちょっとママに会うだけです。ずぐ戻ってきますよ」
「でも。戻って来なかったら・・・?」
「そんな事・・・ありません」
 語尾が掠れて消えた。
 そこからレニは予感を感じ取って、もうこの場から逃げ出したくなった。
 怖い。
 とても怖い。
 君の言葉がとても怖い。

「ねえ、レニ」
 くるりと彼女は自分から背を向けた。
 そして夜空の星を仰ぎ見る。
「イタリアはどっちの方で〜すか?」
 質問の意図が取れなくて何も云えないでいると織姫はこちらを振り返って、ね?と云った。
 その言葉でようやく糸が切れたようにレニは動く事が出来た。
「ええと西がこっちだから・・・ん。あの星のあたりかな・・・」
「そうですか〜。じゃあ、レニ。私がイタリアに行っている間あの星に祈って下さい。あたしもイタリアからレニに向かって祈りますから」
「織姫」
「そうしたら、絶対繋がっていられま〜す」
 本当に彼女は太陽のようだと思う。
 ざわざわしている自分の心の闇を簡単に追い払ってくれる。
 光の中はまだ苦手だけれど、彼女の光はとても心地よくて。
 ずっとその中にいてしまいたいと思う。
「レニが祈ってくれるなら、あたしはちゃ〜んと日本に帰ってきますからね」
「・・・・・・うん」
 涙を隠すようにさわりと笑んだ。

「さ、皆どうなったんでショ?もう寝ますか〜」
 一旦楽屋の方へ目を向けてみた。
 灯りは点いているが、あんまり大きな音は聞こえない。
 支配人がもうつぶれているのかもしれない。
「そうだね・・・。織姫」
「ええ。また明日で〜す、レニ」

 また明日。
 君がそれを口にしてくれるなら。
 次が決して明日でなくても。
 また君に会える。
 また明日。

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