背中を向けた
両側の世界に
それでもいつかは
君に届く日が来る
いつか掴める日が来る
「あ、伊角さん。ここ!」
目標人物の顔を雑踏の中から見つけて、和谷は手を挙げてそう呼んだ。
相手はそれに気付いたらしく、ふいと顔を上げる。
意図せずに視線が重なって、どうしてか胸が鳴った。
そのことに驚いて、和谷は思わず手を下げてしまう。
どうしてだろう。
彼の顔は本当に、とても綺麗だと思う。
雑踏の中でもそれはくすむ事がなくて。
それが緩やかに笑んでいくのを見ると、和谷はもうどうしていいか解らなくなってしまう。
何故あんなにも無防備で、さらけ出して、そしていつもどこか一線を引いているのだろう。
その一線を越えてみたいといつも思うのだけれど。
越えてしまったら見てはいけないものを見てしまいそうで。
それが。
怖いのかもしれない。
「どうしたんだ?和谷」
「うわあ」
気が付くといつのまにか彼は目の前にいて。
いきなりの事に驚いて声を上げる。
「うわあ…って。化け物みたいに……」
「だって伊角さん目の前にいるんだもん。ビックリするじゃねーか」
「っはは。呼んだのは和谷だろ?」
「そ…そりゃそうだけど」
つい見とれておりました。なんて言えるわけもない。
和谷は思わず頭を掻いた。
ちらりと横目で彼の方を見遣る。
陽に透けた髪は真っ黒なのに少し茶色がって見えた。
やっぱり暫く見ない間に髪が伸びたなと思う。
けれども、中途半端に伸びたその長さの方が似合うと思ってしまうのは何故だろう。
「どうだ?調子は……」
「伊角さんこそどうなんだよ」
どちらかというと、彼の方が今はプロを控えた身で。
だから和谷にとっては自分の事よりも彼の事の方が気になる。
今回の試験で同じ場所に来てくれるのは彼であろうと信じていたから。
「まあ、全力を出す…だけかな」
空気が動くように彼は柔らかく笑う。
パチリと日差しが瞬いたように感じた。
「消極的だなー。もっとやってやるぜって感じとかないのかよ」
それから隠れるように強気に言ってみる。
負けているのは自分の方だ。
結局何故かいつも負けた気がする。
囲碁だけじゃなく、すべての事に。
「あれ?イスミ!?」
呼ばれた名前に彼の顔が上がった。
和谷もつられてそちらを見遣ると見たことのない顔がこちらを見ている。
棋院の囲碁仲間ではない。
「久しぶりだなー。髪伸びたんだな。今まで何してたんだよ」
「ちょっと中国に行ったりしてたんだ」
「中国ー!?何しに」
「碁の勉強」
「お前やっぱり碁ばっかりだな」
相手はそう言うとク、と笑った。
それが何故だかバカにしたようにみえて、和谷はム、とする。
けれど、彼と話をする伊角の顔はとても楽しそうで。
なんだかもやもやと悲しい気持ちのような物が心を埋める。
煙のように広がっていく。
彼が、相手に笑う。
自分に向けられるそれもそれ以上のものであればいいのに、と思う。
願うならば、自分だけ向けられればいいのにと。
解っていた。
考えればそれは何て醜い感情なのだろうか。
所詮それは嫉妬にしかすぎなくて。
争う事を好まない彼の事を考えればそれは抑えなければならない感情である。
けれどやはり闇は広がりを見せて。
光は黒く塗られていってしまう。
ドキドキと鳴る胸を抑えた。
全てが黒く流れていくのをせき止めるように。
躯全てに循環してしまわないように。
やがて、話は終ったのか相手が手を振って去っていった。
「悪い。待たせたな和谷」
「友達…?」
「ああ、高校のな」
彼はどこか愁いを含んだような懐かしそうな目でそう云った。
もやは消えようとしてくれない。
だからそれを忘れるかのように。
「オレも高校行けば良かったかな〜…」
本気でそう思っているわけではないけれど。
気を引きたかったのかもしれない。
「だって、伊角さん楽しそうなんだもん」
「そうかあ…?」
楽しそうだ。
碁を打っている時の目が柔らぐ。
自分の時の会話は碁の事ばかりだけど、高校での彼は違うのだろうか。
学校で彼は一体どんな話をするのだろうか……。
「でも。今は和谷と一緒に碁が打てるから楽しいよ」
ザワリと、葉が擦れた音を立てた。
「プロになれたら又和谷達と一緒だしな」
本当に。
何でこんなに彼は。
自分が喜ぶ言葉を知っているのだろうか。
嬉しいのが知られたくなくて、思いっきり背中を叩いた。
「その前にこっちに来てもらわないとな!」
風が鳴る。
心にも外にも。
ざわざわと乱れていく。
ヤバイヤバイ。
届かない世界の両側にいても。
少しずつ動いていけば。
いつか掴める日が来る。
「やっぱ高校はいっか」
思い切り腕を伸ばして伸びをしてみた。
「何だそれ」
言葉は秘密。
鍵を掛けた箱の中。
どこかへ行かなくても君と一緒にいられるなら。
背伸びをしなくても君が近づいて来てくれるなら。
「よし!さてどこいっこかー!?」
「何お前。決めてなかったのか!?」
言葉は秘密。
いつか話すときが来るまで。
今はまだ両側。
手の届かない両側の世界。
背を向けたのは自分だけれど。
いつかまた君を掴める日が来る。
君の手を取れる日が来る。
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