夢色星
 夢を見る。
 遠い夢を見る。
 懐かしくて。
 寂しくて。
 とても甘い夢を見る。
 けれど目が覚めたら。

 そこには何も残ってはいない。

 コン、とドアが鳴った。
 化粧台に座っていた織姫はそちらを一度見遣り、時計を見る。
 もう11時を大分回っている。
 今から来客を相手していては寝るのは一体何時になってしまうだろう。
 そう考えるとふいの来客はとても鬱陶しく思え、織姫は口を閉ざした。
 もしかしたらそれが花組の隊長であるかもしれないけれどそんな事は関係ない。
 隊長であろうが何であろうが自分の睡眠を邪魔する者は許せない。
 このまま何の返事もしなければ扉の前の来客はどこかへ行ってしまうだろう。
 そう考えて織姫は閉ざした口に加えて体を硬くした。
 物音を立ててはいけないと。
 けれど扉の前の気配は消えようとはしてくれず。
 ただ何も云わずにじっとそこにいるようだ。
 静寂に浮かぶ空気の波。
 蝋燭の火が何かの弾みにふわりと揺らめくような。
 何もない空間に浮かぶ微かな存在感というか。
 何故かそこから逸らせない視線のような。
 だからそれに気付いてしまった織姫もそれから逸らせなくなって。
 思わず大きく立ち上がってしまった。
 は、と気付いた時には遅い。
 チェストは派手な音を出して床に転がった。

「んもう。一体こんな時間に何の用でーすかー!?」
 こうなったらもう開き直ってしまうしかない。
 相手が誰なのかイマイチ確信に欠けるけれど。
 でもきっと彼女だと思った。
 闇に浮かぶ存在感。
 そんな雰囲気をここで振り撒いているのは二人くらいしかいなくて。
 その中で積極的にこの部屋に来ようという思考を持っているのは彼女しかいない。
「ごめん。織姫。もう寝るところだった・・・?」
 閉まったままの扉の向こうから予想通りの声が聞こえた。
 やっぱりだ。
「レーニー。こんな時間にどうしたですかー?」
 控えめな音を立てて、扉が開かれた。
 そして闇の奥からふわりと銀色の髪が現れる。
 ミルク色の遥かに透明な白い肌。
 柔らかそうな銀色の、少しだけクセのある髪に。
 少年ぽさを残した中世的な顔立ち。
 いかにも見て女だと解る自分とは大違いで。
 あんまりにも何色に染まらない彼女を時々苦しくも思う。
「うん、ちょっと・・・・・・」

 いつもの、端的に用件だけを言う姿勢を保つ彼女からは考えられないくらいの曖昧な言葉。
 言い出しかける言葉は儚くも唇から出ることを許されずに泡となって消えていくようで。
 そうやって宙に浮いているような彼女を、見たくなかったのかもしれない。
「いいでーす。とにかく中に入るでーす」
 進入しようとしていた闇は、扉によって遮られた。
 けれど彼女の背中に緩い影がへばりつく。
 ぱすり、とレニはベッドに腰掛けた。
 織姫は転がっていたチェストを元に戻して、その座面を撫でた。
「・・・・・・何があったですか?」
 穏やかに声を掛けた。
 彼女が答えられるように静かに声を掛けた。
「うん」
 けれどそう。それだけの言葉を置いてまた、彼女は口を閉ざしてしまった。
 そしてもうカーテンの閉めてある窓辺を見遣ったまま動かない。
 曖昧な目の色。
 浮かんだ視線。
 その無粋な布の奥にある、何かとても大切な物を見定めるように。
 いや、それ以前に。その大切なものを探すような。それを考えてしまうような。
 要はきっと。彼女はその大切なものが解らなくて。
 だからここに来てしまったのかもしれない。
 ふう、と軽く息を吐いて織姫はレニの隣に座った。
 ベッドが二人分の体重を抱えて軋む。
 痛い、悲鳴のような音にレニの肩が少し揺れたように見えた。

「僕は・・・・・・独りなのかな・・・・・・」
 へばり付いていた闇がポタリと落ちた。
 それは黒く心に染みを作る。
 氷が部屋を埋めてしまったと思うくらい時間が止まった気がして。
 動けないまま、動かないまま織姫はただそこでじっとしていた。
 さめざめとした彼女の目は自分の顔を射る。
 黒い染みが伝染してしまうかのように感じられる。
 それはなんて深い闇。
「きゅ・・・急にどうしたですかー?」
 その視線を切りたかったのかもしれない。
 その視線の先にいたくなかったのかもしれない。
 織姫はすっかり固まってしまった自分の体を解き放つように、わざと大きな声を出した。

「アイリスが・・・・・・」
「アイリスがどうかしたですかー?」
 長い睫が伏せられた。
 闇がまた彼女の内部に侵入していくように。
 不穏な空気は消えてはくれない。
「フランスの両親に手紙を書くんだって・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
「織姫もイタリアのお母さんに手紙を書くよね」
「そうですねー。ママを心配させたくないですから」
 うん、とだけ小さな声でレニは言葉を返した。
 それだけ聞いて、織姫は彼女はきっと寂しいのだと思った。
 昔の、会ったばかりの事を考えるとそれはなんて素敵な進化なのだろう。
 自分以外の他人を排除し、何者にも依存せず、頼る事を知らないまま。
 そう、自分という存在の他に何か心を許す人の存在を知らずに彼女はここまで来てしまって。
 それがあんまりにも急に道が開けて、それでもどこにも壁がなくて倒れたくても倒れられないのだ。
 それなら。
 そう、彼女がきっと寂しいとそう思っているならば。
 どこかに倒れられる場所が欲しいならば。
 織姫はレニを抱きしめた。
「レーニ。心配する事ないでーす。皆がいるですよー」
「織姫・・・・・・」
「少なくともわたしはいますからねー。レニの隣に」
 ふわりと優しい感触の彼女の髪を撫でた。
 銀色が綺麗に音を立てて流れた。
「レニは独りなんかじゃないでーす。むしろ。独りになんかさせませーん」
 あの頃には絶対に見られなかった笑顔を。
 あの氷のように凍てついた顔しか出来なかった彼女の。
 その笑顔をとても愛しく思う。
 それを決して壊してはいけないと思う。
 星はまだ光りだしたばかりなのだから。

「そうです、レニー。わたしに手紙を書くでーす!」
「織姫に!?」
「そうでーす。レニの手紙にわたしがちゃーんと返事を書きますかーらね!」
 それでも納得のいかないような訝しげな表情で。
 遠いような近いような視線をあやふやに泳がせている。
「そしたらきっと寂しくないです」
 にこりと笑むと彼女の顔も強張りを緩めたように見えた。
「うん。解った・・・・・・」
 ふと時計を見るともう既に明日という日になってしまっている。
 けれど織姫はこうやってレニと話せてよかったと思った。
 今日ここに来たのがレニで良かったと思った。
「さあ、レニももう寝るでーす」
「うん」
 睫はもう伏せられる事はなく。
 視線はどこか遠くに飛んでしまう事もきっとなくなるだろう。
 このことで彼女が納得してくれたのかはよくは解らないけれども。
 あの笑顔があるならきっと大丈夫だと思った。
 きっと彼女も自分も頑張っていけるのではないかと思った。
 星組で初めて会った時の表情のない顔。
 薄っぺらい皮一枚のような変化のない表情。
 それは今やその心によって色々と変わる事を覚えた。

「おやすみ織姫」
「おやすみでーす、レニ」
 彼女が部屋へ入っていくまで見届けた。
 彼女が部屋に入ってその扉を閉めるまで見届けた。
 そして織姫はついさっきまで彼女が座っていた場所に腰掛けて。
 過去に思いを巡らした。

 思いも夢も安らかに。
 全て貴方の上に降り注げばいい。
 夢も希望も全て。
 あなたの元に届けばいい。
 今まで何も得られなかった代わりに。
 今まで沢山の子供たちに与えられた筈の光を。
 今全て貴方のために。

 そして優しく静かに眠る。
 夢の星。

 

「おはよう織姫。手紙書いたよ」

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