かこのうた
4

「どうしたのマユキ。最近変じゃない?」
 朝食の席で義姉にそう言われた。
 それを隠せば隠す程ほつれた先から欠片は零れていっているらしい。
 マユキはそれでも笑って。
「何でもないよ、おねーちゃんの気のせいじゃない?」
「・・・・・・それなら・・・いいけど・・・」
 そう云われても気になるらしく語尾は曖昧にかすれて消えた。
 マユキはただ知らないフリをして味噌汁をかきこんだ。
「・・・今日も午前中はじいちゃんの稽古があるから、元気出そうね」
 それでも深く追求しないのがこの義姉のいいところかもしれない。
 抉るような言葉に半ば危惧を感じていたのだが、マユキは返ってきた言葉に笑顔を向けた。
「うん」
 今日もとてもいい天気で、空がとても高い。
 心がこんなだから、却って綺麗だと思える空は嬉しかった。

 もう彼は来ないのか。
 そういう疑問を自分に訊くのも疲れてしまった。
 風の日に、ふいに会った彼は。
 風のようにそのまま消えてしまっただけで。
 ちょっとだけ自分に与えられた夢だったのかもしれない。
 起きたら覚めてしまうような淡い夢。
 それは少しの希望が含まれていて。
 けれどその希望に何かを求めてはいけない。
 それでも。
 何かを懸けていたいと思うのは何故だろう。
 どこか隅に残してしまっているのは何故だろうか。

 背中に視線を感じた。
 町の中でも辺境にあるこの道場はめったに人が来ないから。
 マユキは初め気のせいかと思った。
 目の前でゲンカクが繰り出す技。
 それをナナミと真似ながら、それでも背中に感じる視線。
 痛いくらいにしつこく感じ、マユキは後ろを振り返る。
 そこに。
 少年がいた。
 叡智を含んだ少しつった目が何故だか彼を思い出して。
 何故だかとても哀しいような想いが心を巣食って。
 マユキは思わず声を掛けた。
「君は誰?」
「僕はジョウイ。君は?」
「マユキ・・・・・・」
 言葉は翳りを含む。湿った音がする。
「君も・・・・・・やる?」
 何かを重ねていたのかもしれない。
 それが彼に対する冒涜でしかなくても。
 重ねたり隠したりしていないと彼がいなくなった事実は自分には耐えがたいもので。
 だから、いつのまにか彼にルックを求めて、そしてルックを消したかったのかもしれない。
 とても大好きだった、風の子。
 とても優しい風を持った彼を。
 綺麗な笑顔。自分を見る眼。
 ざわめく葉の下で密やかに口付けた唇。
 全部を。
 消してしまいたかったのかもしれない。

 さよならだね。きっと。
 全部本当は解っていた。
 いつかは来る日のこと。
 さよならのことだって。
 解っていたんだ、僕は。
 さよならだね、ルック。
 けれどね、ありがとう。

 ふわりと風に浮かんだ少年が独り、ただある光景を見ていた。
 視界にとらえたのは少年。
 無邪気に笑う一人の少年。
 それを見て少しの妬みが心に巣食う。
 自分がいなくても笑っていられる彼に少しの棘が痛む。
 そして夕闇の風の中で泣いていた彼を想う。
 今の彼には自分などいなくてももう大丈夫のように思えて。
 もう自分は必要の無い人間に思えて。
 彼の隣にいるもう一人の少年が嫌に羨ましく思えた。
 思考は巡る。
 嫌な感情が巡る。
 嫌悪感に吐き気が伴う。
 それに気付きたくなくて、ルックはふいと消えてしまった。
 マユキを見ていたくなかった。

 さよならだったんだね。
 さよならだった、もう。
 いつか来る日があると。
 それは解っていたけど。
 伝えたい言葉があった。
 それは風に消えていき。
 いつか君に届けばいい。
 それだけを、今は想う。

 唄が聞こえた。
 風の唄。
 いつが聴いた歌。
「るっく?」
 少年は飛び出した言葉に驚く。
「誰?ルックって」
 ジョウイが訊いてきたけれどこれは秘密。
 あまりにも尊い名前だから。
 ただ首を振って、口の中に言葉を含んだ。
 出してしまったその言葉をまた口の中に閉じ込めた。
「何でもないよ。行こうジョウイ」
 空はとても蒼くて綺麗。
 そして風は穏やかに優しい。
 これは君が見ていてくれている証。

 

「あれー、おっかしいなー」
 階段の下り口から、石版が見下ろせる所にたって、マユキはそう一人ごちた。
 いつもならそこに定住してる彼が今日はいなくて。
 マユキはきょろきょろと辺りを見回す。
「どしたの?マユキ」
 背後から当然のように声を懸けられた。
「ナナミ、ルック知らない?」
「ルッくんなら屋上の方に居たわよ?」
「そ、ありがと。ナナミ」
 そう云ってとびきりの笑顔を見せてマユキは階段を駆け上る。
 後に残されたナナミは独り、その後姿を見送った。
「やれやれ、我が義弟ながら可愛いわねー」

 唄が聴こえた。
 それはいやに懐かしい音を含んでいて。
 過去の残像が波のように押し寄せて来た。
 その懐かしいような、哀しいような映像を消したくて思わず大きく屋上への扉を開く。
 音の元凶は自分の探していた少年からだった。
「ルック・・・・・・?」
 曖昧に舌先に乗せた言葉に頭の奥で何かが掠める。
 知らないけれど知っている音。唄。
 そしてどこかで引っかかった名前。
「ルック?ねえ、その唄・・・・・・」
 ヒョウ、と少し強い風が吹いて、彼の法衣がバサバサと音を鳴らした。
 マユキの髪も。ルックの髪も。
 風に靡いて、綺麗な音を奏でる。
「君は忘れているかと思ったよ」
 旋律を流すのを止めて開いた彼の唇。
 その言葉が何を象っているのかよく解らなくて。
「何・・・の事・・・・・・?」
「そうだね、でも実際は忘れていたんだ」
「ルック?」
「君はでもこの唄を、覚えててくれたんだね」
 風が頬を撫でた。
 彼の代わりにとでもいうように。

 心に少年が蘇る。
 幼かった自分。
 それに重なるもう一つの影。
 それがゆっくりと手を差し伸べて。
「君、迷子?」
 冷たかった手は自分の熱でやわりと溶けた。
 その言葉は温かく自分を包んだ。

 手が、震えた。
 ばらばらだった残像が一斉に音を立てて何か形を象っていく。
 全ての映像が逆回しされたように。
「るっく・・・そうか・・・ルック」
「思い出したんだ・・・・・・?僕はずっと・・・覚えていたよ、君の事」
 ルックの手がマユキの頬に触れた。
 あの時と変わらない冷たい手。
 それが自分の熱でやわりと溶けていく。
 その感覚がとても懐かしくて、思わず目を閉じた。
 眼下に広がる広大な風景が、あの時木の下から見た光景に重なった気がして。
 当たり前のように口付けた。
 どこか懐かしい感じがしたのは。
 何故か胸が奥が痛くなるのは。
 全て心のどこか奥底で覚えていたからなのだと、マユキはなんとなく気付いた。
 幼い時の想いは解放される。
 忘れていた物を全て当て嵌めて。
 置いてきた物を取り返したような。
 全てを何と表現すればいいのか解らないくらいの嬉しさ。
 欠けた物が埋まって完全になったような感覚。
 全てを抱きしめて。

「あの時ルックに会えたから僕は・・・・・・」
「うん」
「ここにいるんだ」
「・・・・・・」
「君が大好きだった・・・・・・」
「それは過去形?」
「ううん・・・大好き・・・だよ」
 大きな夕日の中で泣いていた少年。
 その貌がふわりと。
 ふわりと笑んだ。


かこのうた、終了いたしました。

これがまあ、私の中でジョウイに会う前のマユキのお話。

戻る