気が向いたら。という言葉とは裏腹にルックは、週に2.3日は来てくれるようになった。
例えば月の日に、湖面の輝きを見に行ったり。
はだしのままで草むらを走ってみたり。
浮かぶ星を寝転んだまま眺めてみたり。
夜の風はとても静かで穏やかで、まるで彼みたいだと思った。
秘密の時間。
だれもしらない、約束の時間。
密に埋まっていく心の感情。
浮かれるような、視界が広がっていくような甘さが。
けれどどこかに潜む破綻の鎖。
言ってしまったらすべてが崩れてしまうような脆さを伴って。
だから開きかけた唇はいつだってそのまま閉じてしまう。
それか、全く違う話題が空を飛んでいくだけだ。
言わない言葉は。
言えない言葉はいつか。
あなたの心に届くのだろうか。
飛んで雲になって、風に流れてそして。
あなたの元に届くのだろうか。
そんな事は決してないと。
解っていた。
マユキはころんと寝返りを打った。
衝立の向こうで義姉はすっかり寝入ってしまっている。
暗さに慣れた目が部屋の調度品をうっすらと視界に収める。
開かれた窓から風が少しだけ入ってきた。
優しいようにマユキの頬を撫でて、部屋の奥へ流れて行く。
もう何日経っただろうか、あれから。
最後に彼と会ってから何日経ってしまったのだろうか。
指を折るのがとても嫌で。
初めはわくわくと数えていたその数は最近ではすっかり恐い物になってしまっている。
どれだけ彼と会っていないのかを知るのが恐い。
あのまま。
あのままの甘さの中でいたかったのに。
言葉は届いてしまったのだろうか。
その答えが今のこの状況なのだろうか。
気付くのが嫌だ。
知るのが怖い。
解ってしまうのがとても怖い。
その答えにたどり着くのがとても恐い。
月の光の中で、彼はとても綺麗で。
陶器のようなすべらかな肌に。
紅い唇。
大きな碧の目。
飛んでいってしまうのが嫌で思い切り追いかけた。
その端をずっと掴んでいたかった。
いや、本当なら。捕まえていて欲しかった。
感情が回る。
少しの後悔と汚濁を伴って。
躯の血と一緒に回っていく。
本当に彼が好きだった。
月の灯り。
星の瞬き。
草の小波。
皆彼と一緒だったからあんなにも綺麗に見えたのに。
隣にいてくれたのが彼だったから幸せだと思えたのに。
闇を埋めてくれたのは。
孔を塞いでくれたのは。
彼だったのに。
「ルック・・・」
マユキは細く呟いた。
涙が落ちた。
誰もここには残ってくれない?
好きだと思ったら。欲しいと思ったら。
全部逃げていってしまうの?
なら好きで居ない方がいいの?
「まだ暫くは外出禁止ですよ」
額に手をかざしてレックナートが云った。
その言葉に軽く舌打ちして、ルックはベッドの中。
彼のことを思い描いた。
彼はどうしているだろう。
このままだと暫くは会えそうにない。
まったく何てバカなことをしたのだろう。
不用意に使った魔法が暴発して、気付いたら水浸しだった。
自分の力を過信していたわけではないと思うのだが、彼女に言わせるとまだ早い類のものだったらしい。
そのことを認めるのも嫌だったし、現状を理解するのも嫌だった。
けれど現実が指しているのは今の状況。
いつも軽く感じる体が今は鉛を飲み込んだように重くて。
視界は霞んだようにぼうっとしている。
頭はドラムが中で鳴ってるようにがんがんと響いてきて。
表面は熱いのに、躯の中はとても寒くて。
ルックは猫のように体を丸めた。
鳴り響く頭の中で眠りを見つけるのはとても難しく思えたのだが、それでも。
その目はやがて閉じられた。
つまりルックは風邪を引いてしまっているのだ。
夢を見た。
いなくなってしまう夢。
大好きな人がいなくなってしまう夢。
もう何回見たのだろうか。
初めにいなくなったのは誰だっただろうか。
もう数えるのも嫌になってしまった。
もう考えるのも嫌になってしまった。
泣いているのは彼?
それとも。
それとも?
目を覚ました。
朝日が薄く差し込んでくる。
カーテンが軽くふわりと持ち上がった。
何か夢を見ていた気がするのに、それが何だか解らなくて。
霞みは晴れてはくれない。
その先にあった筈の映像は捕まえるまえに空気に混ざって飛んでしまった。
風に連れて行かれてしまった。
曖昧にぼんやりとした頭はまだ動いてはくれない。
ただ濡れている頬がやけに気になって。
何に泣いているのかも解らずに泣いている自分がやけに恥ずかしいような気がして。
ぐいと涙を拭った。
目元がうっすらと赤くなった。
彼に会えなくなってどれくらい経っただろうか。
数えるのがとても怖い。
きっと両手では足りないくらい経っただろう。
半分ぐらいまで数えて、その先を見るのがとても怖くて。
そして数えることも止めてしまう。
もう彼が自分を忘れてしまったのではないかという危惧だけが心を侵していく。
忘れられてしまうのはとても辛い。
消えてしまうのはとても辛い。
彼の中で自分の存在が消えてしまうのがとても辛い。
大好きな人がいなくなってしまうのはとても怖い。
それはとても哀しいことだから。
”君は誰?”
聞きたくない言葉がある。
云って欲しくない言葉がある。
彼がそう云う確信はないのだけれど、云わないという保証もどこにもなくて。
けれど会いたいというのが本当の感情。
逃げるのは嫌だ。
怖いのは本当だけれど、逃げてしまうのはもっと嫌だ。
だから、ルックは。
呪文の言葉を唇に乗せた。
レックナートの外出許可が下りてからもう。
随分経った日の事だった。
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