かこのうた
1

君は僕を憶えている?
遠い昔に会った僕の事を。
きっと忘れているね。
あんなに遠い昔のことだもの。
でもそれでもいいんだ。
もう一度刻んであげるから。

僕を忘れてしまわないように

 

 少年は不安げな瞳で一人立っていた。
 周りは何もない草原が広がっている。
 目印らしきものはない。
 時刻は夕暮れ。このままいくと数分もしないうちに闇が自分を包んでしまうだろう。
 どうやってここまで来たのか、その経路が解らなくて。
 一生懸命家へと続く道を探しているのにそれすらも見つからない。
 けれど。ふと思う。
 少年は本当にそこへ帰ってもいいのだろうか。
 まだ慣れていないあの町。
 自分を見る違う目の色。
 それは決して友好的なものではなかった。

 少年は孤児だった。
 どこで生まれたかなんて覚えていない。
 どこでどう暮らしてきたのかさえも曖昧だ。
 少年は何も覚えてはいない。
 ついこの間知らない人に拾われてあの町にやって来た。
 知らない女の子も一緒に。
 何が幸せなのかは解らない。
 何が不幸なのかも解らない。
 けれど、自分を見る不審な人々の目は確かだった。

 あそこが自分の家だと言われても何も解らなくて。
 ただ眠る場所と、何もしなくてももらえる食べ物が不思議で。
 だって、そんな物を与えられたのはそれが初めてだったから。
 自分は本当にそこへ帰っても良いのだろうか。

 ザアと鳴って風が自分の髪をすくいあげていった。
 その風がいやに大きくて少年は驚いて空を見上げる。
 黒い闇と朱い夕日が不調和に混じって、まるで何か異形な者が出てくるような眩暈に襲われる。
 曖昧な色。
 何かが襲ってきそうな恐怖。
 何時の間にか少年の目から雫がこぼれ落ちていた。
 この町に来て初めての涙だった。

「何してんのさ」
 背後で声がした。
 少年はあまりの不意打ちに肩を強張らせる。
 氷のようなさめざめとした声。
 今後ろには一体どんなものが立っているのだろう。
 もしかしたらこの闇に召喚された恐ろしいものかもしれない。
「君、迷子?」
 背後でまた誰かが口を開いた。
 先程よりも優しい声音に、少年は思わず振り向く。
 こんな宵闇の時間。普段は冷えた言葉でもその優しい文字は少年にとっては砂糖菓子のようだったから。
 けれどそれはもしかしたら声音が優しかったのではなく、ただの少年の錯覚だったのかもしれない。

 少年の瞳に映ったのは自分より少しだけ大きい少年だった。
 軽装な自分とは対角に重そうなローブを纏っている。
 髪は碧がかった金茶色。
 子供とは思えないくらい冷めた瞳。そこには何か暗く深いものを思わせる。
 白くすべらかな肌に造詣も感嘆するくらい整っていた。
「君、迷子?」
 振り向いた少年に彼はもう一度訊いてきた。
 その綺麗な貌を少し面倒そうに歪ませながら。

「わ・・・解んない・・・・・・」
 震えてようやく絞った声で少年は云った。
 朱はじわじわと空から消え失せようとしている。その後に残るのは滲んだ墨の色。
 月でも見えればまたいくつかの救いはあるのだろうが、生憎の新月はその姿を見せてはくれない。
 どんどんと暗くなっていく辺りに調和するように、眼前の彼の綺麗な貌も影が深くなる。
 もう少し闇が深ければそれに溶けてしまいそうなくらいに。
「どこから来たのさ」
 溶けてしまう直前に彼は口を開いた。
「・・・・・・・・・」
「どこから来たのかも解らないの?」
 呆れたように彼は肩を落とした。
 これからどうすれば良いのかを考えあぐねているようだ。
 このまま置いて帰る訳にもいかない。
 かといって連れて行くわけにもいかない。
 どこから来たのか見当も付かない。

「キャロ・・・・・・」
 ぼそ、と少年は呟いた。
 どこから来たのか解らなかった訳ではない。
 町の名前も、町の中のあの家の場所もちゃんと解っていた。
 けれど。そこへ帰っていいのかが解らなかったから。
 だから。何も云えなかったのだ。
「何だキャロか。それならそうと言えば?ほら」
 そう言って彼は手を差し出した。
 少年が持っていた少しの不安を取ってくれるように。
 おずおすと少年はその手を取る。
 期待を裏切らないほどの冷たい手。
 けれど優しく握られて、少年はようやく体を緩ませた。

「目、瞑って」
 言葉少なにそれだけ云われて、訝しく思いながら少年は素直に目を閉じた。
 その閉じた上から彼のもう片方の手があてられる。
 視界は暗く一滴の光すらもない。
 けれど何も怖くはなかった。
 体に入った安堵はもうすっかり溶けてしまったらしい。
 だから隣で彼が何をかを呟いても何も思わなかった。
 ふわりと風に包まれた。
 宙に浮いたかのような感覚が目を閉じてでも感じられる。
 空を飛んだ事はなかったが、きっとこんな感じだろうと思った。

「着いたよ」
 浮いた感覚に慣れるまもなくそう云われて足が地に付いた。
 驚いて少年は目を開く。
 暗くてよくは解らないが、目の前に聳える大きな門には見覚えがあった。
 町に始めて入ったときにも見た。
 町の入り口にある大きな門。
「自分の家くらいは解ってるよね?」
 少し口元を歪ませて彼は言った。
 少年は言葉もなくただ頷いた。
 まだ浮いた感覚が抜けないらしい。目の焦点が少しだけずれている。
 夢を見ている者の目。
 彼はそんな少年の様子に諦めて踵を返そうとした。
 が。
「待って!!」
 法衣の端を捕まれて彼は足を滑らせそうになった。
「何?」
「あ・・・あの。ありがとう・・・ございました。き・・・君の名前は?」
「普通自分から名乗るもんじゃない?」
「あ、ごめんなさい。僕はマユキっていって・・・その、あそこの道場の・・・・・・に・・・暮らしてます」
 道場の子供だとは云えなかった。
「ふん。僕はルック。じゃあね」
 それだけ言って、ルックは消えてしまった。
 まるで風のように。
 それを見てマユキの中で何かの符号が繋がる。
 先ほどの浮遊感は今のそれと同じ、所謂テレポートというものなのだと。

 少年は街の門の前で暗くなった空のどこでもない所を見つめていた。
 街の中の家の灯りはとても暖かそうで。
 そこは自分が足を踏み入れてはいけない聖域に思えた。
 ぬくもりに入っていけない。
 それ以前に暖かさを知らない。
 そこが自分の帰っていい場所なのかは未だに解らない。
 いらない子供だったはずの自分。
 それが急にいる子供だと言われても、頭も体もついてはいけない。
 けれど、今の彼の事を切りたくはなかった。
 彼がここに戻してくれたのなら、ここに帰らなければならないと思った。
 いや、帰っていいような気がした。
 上手くは言えないけれど、彼が”帰っていいよ”と連れて来てくれたような気がしたから。
 彼の心に報いたいと思った。
 そして少年はそろそろと門の下を潜り。
 坂道を走って登った。

 家の灯りが見えた。

戻る