かこのうた
2

 ふわりと面白いくらいにカーテンが持ち上がった。
 それに乗じてマユキの視界に空が飛び込んでくる。
 細い月の光に負けないくらいに輝く星の輝き。
 辺りの空間は闇が包むように浮かんでいるのに、外界はなんて流れているのだろうと思った。
 風の動きがともすれば見えるのではないかとまで思える。
 小さな空気の動きですらも、星の中で踊るように見えるのではないか。

「やあ」
 闇夜に乗るぐらいの小さな声が届いた。
 こんなに静かでなければ気が付かないくらいの。
 視界に少年が入り込んでくる。
 驚いてマユキは上体を起こした。
 その様子に出窓に座り込んだ彼は唇に指をあてて、し、と薄く云った。
 衝立の向こうで女の子の声が少しだけ聞こえた。
 ピクリと肩を少しだけ強張らせて、マユキはそっと衝立の向こうを覗き込む。
 そこにはつい最近姉弟となった、義姉が寝ていた。
 けれどその唇からは寝息が漏れるだけだ。
 目を覚ます気配はない。
 ほうと口腔に溜まった空気を一気に塊のように吐き出して、マユキは息を付いた。
 そして出窓の彼ににこりと笑む。
「来てくれたんだ、ルック」
「ふん。名前を忘れるくらいバカじゃなかったみたいだね」
 口元を歪ませるように笑って、彼は云った。
 雲が切れて少しだけ月の光が強くなった。

 マユキは眩しそうに目を細めた。
 窓辺に座った彼は月の光を背に受けてまるで綺麗な人形の様だった。
 軽い髪がサラサラと音を立てては流れる。
 もし天使が人形を作って息を吹き込んだらこんなものが出来るんじゃないだろうか。
 マユキはその綺麗な貌に暫し見とれた。
「何?」
 気付かれたのが気恥ずかしくてマユキは目を逸らす。
 その様子にルックは悪戯っぽく笑った。
「こっち、向いたら?」
「な・・・なんでもないよっ」
「解ってるよ、だから、こっちを向いて」
 その言葉におずおずとマユキはそちらを向いた。
 顔は俯いたままで。
「君が・・・」
 ふわりと言葉が浮いて届いた。
 それはマユキの顔を上げさせるのに十分だった。
 それを思うともうルックは、どれくらいマユキのことを掴んでしまっているのか。
「元気そうで良かったよ」
 儚くあたる月光を背にして彼は緩く笑って。
 すべてが天使降臨のどこかの絵のようで。
 彼が酷くこの場にそぐわない高貴なものに見えて。
 静寂な外の音。
 微かに聞こえるのは葉が掠れる音か。
 自分を取り巻く空気はふわりと浮かんだまま止まっている。
 外はなんて早いのだろう。
 それでももう少し、この止まった空気に身を潜めていたいから。

「げ…元気なんかじゃ・・・ないよ」
「どうして?」
 言葉が出てこなかった。
 どうしてと訊かれてもこの曖昧な心は自分でも解りはしない。
 どこかに空ろにあく穴があって。
 風は音を立てて流れていく。
 ここで与えられる優しさも、暖かさも全ては虚像で目が覚めたらもう何もなくなって。
 残ったのは白い世界。もしそうだとしたら。
 優しさに身を任せるのはとても恐い。
 それがなくなってしまったら辛いから。
 だから知らないフリをして。だから気付かないフリをして。
 どこにも幸せなんてないって、言い聞かせて。

「外に行こうか?」
 気が付いたら手を取っていた。
 迷い子になっていたあの時のように、差し出された白磁の手をもう、吸い寄せられるようにとっていた。
 掌が痺れたように冷たい。
 それでもそれがルックの熱なら。
 マユキはゆっくりとそれを受け入れた。

 外の流れが自分を包む。
 まるで怒涛の嵐に放り出された気分だ。
 内では聞こえない程の音が外に出てしまえば耳の傍を掠めるように聞こえてきて。
 けれど繋がれた手が嫌に優しかったから。
 連れて行かれたのは何でもない。マユキも知っている道場の裏手の巨木のそば。
 崖から下の町や、草原が見下ろせる。
 そこに並んで座って。
 時間が風と一緒に流れていく。
 みみずくの声が遠くで響いて、思わずマユキは肩を強張らせた。
 それに気付いてかルックは少し笑んで。
 綺麗な少し哀しい旋律を唇に乗せた。
 淡い儚い音。けれどもやけに綺麗で。
 何か神聖で神々しいような。
 聖誕祭の賛美歌のような。
 心が流れていくような感覚がした。
 だからだったのだろう。
 そんな歌を聴いたからだろう。
 涙が流れた。

「僕ここにいてもいいのかなって」
 唄がやんだ時そんな言葉をマユキは舌先に乗せて。
 それは届く宛てもない微かな叫びだったのかもしれない。
「どうして?」
「僕には誰もいない。何も・・・ない」
 ザア、と音がして巨木の葉が煩いくらいに鳴った。
「引き取られて、でも町の人は何か変な目で見る・・・し。あの・・・人も本当に僕がここにいてもいいって思っているの・・・かな・・・」
 あの人というのは彼を引き取った人のことだろう。
 独りだったときから空いていた穴。
 引き取られても埋まらない穴。
 作り物めいた幸せを感じても何もそれを塞ぐほどの力にはならない。
 彼が本当に幸せを感じない限りは。
「君は僕に会えたときどう思った?」
 まっすぐな碧の目で見つめられて、マユキの顔は濡れたまま赤くなった。
 けれどこんな闇の中じゃ気付かれる事もないだろう。
 曖昧で、緩やかな願望だけを持ってマユキはその目を見つめ返した。
「僕は君があそこで起きていてくれて、嬉しいと思った。幸せだと、思ったよ」
 何かが外れた。
 その言葉が止めていた気持ちを外してしまった。

 もし抱きしめてくれなかったらマユキはまた、思いを外された枠の中に押し込めていただろう。
 でも腕が自分を包んでくれて。
 顔が彼の胸に隠してもらえたから。
 誰も知らない。
 彼しか見えない。
 自分が大きく泣いてしまったことなんて。
 きっと誰も気付かない。
 月でさえ知らない。
 隠された顔は誰にも見られないから。
 声を上げて泣いた。そんなに泣いたのは初めてだった。
 小さく零したりなら何回かあったけれども、こんなに大声で泣いたのは初めてだった。
 泥濁して汚れた感情が彼の唄のように崇高になっていくような気がした。
 ただそれだけで浄化された気分になった。
「君が嬉しいと思ったら、幸せだと思ったら幸せなんだよ」
 恐がらなくていいんだ、そう付け加えて額に唇を寄せられた。
 それに少しだけ驚いて、けれども何故だか嬉しかったから。
「でもそれが消えたら・・・・・・どうすればいい?」
 少しだけ顔が強張ったような気がした。
 けれどそれは雲に隠れて月の光がなくなったせいだったのかもしれない。
「それでも、幸せだった日は・・・消えないよ」
 言葉が硬い質感を持っていた。
 瞳の影が少し濃くなった気がした。
 けれどマユキは気付かないフリをして。
 小さく頷いた。

 お礼を述べるかのように軽く、ルックの頬に唇を押し付けた。
 内緒の話をするように。
 それはとても幼稚で稚拙だったけれども、不器用な感謝を込めるには順当のそれだったのかもしれない。
 穴は少しだけ小さくなる。
 優しい気持ちが埋められていく。
 だからマユキは何となく幸せだと思った。
 何が真実で何が虚像なのかも解らないくらいなのに、それは幸せだと思った。
 終止を付けるようにルックが立ち上がる。
 終わりの時間。さよならの時間。
 マユキは出来るだけゆっくりと立ち上がった。
 手を取って欲しかった。
「また・・・来てくれる?」
「気が向いたらね」
 いつも気が向けばいいのに。そう思いながら。
 最後に唇が触れて。驚いたように目を見開いて。
 そしたらもう。
 風の姿は消えていた。
 足元の草が音を立てて鳴った。
 でももう。
 恐くはなかった。

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