月の檻
1

それは優しい檻。
もうずっとその中にいてしまいたいと
そう思ってしまうような。
それは優しい檻。
遥かに甘美な色。
とてもうつくしい音。

でも本当は。
すべて逃避だったのかもしれない。

 

 カタンと軽い物音がした。
 ふわりと微かに外の風が入ってくる。
 その様子にピクリと少年の肩が揺れた。
 少年は空にあった足を地面につける。
 木の感触がヒヤリと足の裏に届いた。
 けれどそこで少年の動きは止まる。
 普段からあんまり外に出るなと言われているのをふいに思い出したのだ。
 どうしてそんな事を言われているのか自分にはよく解らなかったけれど。
 今の自分には彼に従うしか方法はなくて。
 今の自分は彼から離れたらもう生きてはいけなくて。
 だから。
 だからそのまま、扉口の方へ行っていいものか躊躇われた。
 もし今扉にいるのが彼ならば問題はさしてないのだが、もし知らない誰かだったら。
 そしてその事を彼に気付かれてしまったら。
 もう明日にはどこへ行くのか見当も付かない。

「ただいまユアン」
 少年の悪い思考に反するように聞こえてきた声は彼のものだった。
 少年の肩が大きく揺れて、彼は扉口に駆け出す。
 冷たい床が足に擦れて気持ちいい。
「おかえりユエ!」
 飛びつくようににこりとユアンは笑った。
 それを受けてユエと呼ばれた青年も笑みを返す。
「今日はどうだった?」
「ああ。まあまあだな・・・・・・」
「そっか・・・」
「お前が気にすることじゃない。ユアン」
「うん・・・・・・」
 自分の事のように落ち込むユアンの肩を抱いて。
 二人は奥へ消えていった。

 

 戦争が終ってどれくらい経ったのだろう。
 戦争が終ってどれくらいしか経ってないのだろう。
 ユエはハイランド国民だった。
 都市同盟とハイランドが戦争をして、そしてハイランドは負けた。
 兵士だったユエは前線に赴き、ようやく帰ってきたら家族はいなかった。
 もう既に土の中に還ってしまった後だった。
 亡骸ももなく突きつけられた現実に心に残ったのはただの喪失感。
 そして怒りだったのかもしれない。
 軽くなった国境警備を超えることなんてもう容易かった。
 なくなってしまった一つの国の処置を都市同盟が考えている間にユエは国を出、都市同盟領に入り込んだ。
 そんな時だった。
 彼を見つけたのは。
 湖の傍で倒れていた彼を見つけたのは。
 水に濡れてへばりついた茶色い甘い髪。
 鮮やかな赤い服。それに映える黄色いスカーフ。
 何故か心惹かれずにいなかった。
 それがとても綺麗だと思った。
 だからユエは彼をこの人から隠れるように離れた家に連れて帰って来たのだ。

「お前。名前は?」
 壊れ物を扱うように言葉を掛けた。
 痛みを与えればまるで内側から壊れてしまいそうなほど彼は繊細で。
 伏せた長い睫の先。
 愁いを含んだ視線。
 どこか全てを拒絶するような。
 それでいて、全てを受け入れてしまうような。
 不思議な感覚。
「憶えて・・・ないです」
 唇が開いて聞きたかった声と一緒に出された言葉はそれだった。
 一瞬の眩暈が彼を襲うが、それでも何とか持ち直して。
「本当にか!?」
「・・・・・・はい」
「じゃあ、ここがどこだか解るか?」
「・・・・・・・・・」
「何で自分があんな所にいたのかは!?」
「・・・・・・・・・いいえ」
 その言葉にユエは頭を掻いた。
 けれどどこかほっとしている心はどうしてだろう。
 彼が離れてしまわない事に安堵した。
 彼がどこかに行ってしまわない事に安心した。

 離したくないと思った。
 出来るならずっとこの中に閉じ込めてしまいたいと思った。
 愁いを含んだ長い睫も。
 甘い匂いの柔らかな髪も。
 期待を裏切らないひびやかな声も。
 滑らかな線を描いた耳たぶも。
 すべて閉じ込めてしまいたいと思った。
 だから。
「じゃあ、思い出すまでここにいろ」
「え?」
 見開いた驚きの目が先ほどの愁いを帯びた顔から一瞬にしてかけ離れる。
「いいの?」
 少し怯えるように、少しずつ踏み込んで来るように。
「ああ。ここは俺だけだから別に構わない」
「ありが・・・とう」
 少しだけ緊張が緩んだのか溶けた表情に何故か惹かれた。
 笑み。
 それでも愁いを離せない笑みはどうしてこんなにも自分の心を掴んでしまうのだろうか。
「俺の名前はユエ」
「ユエ・・・さん」
「さんなんてガラじゃねえな。呼び捨てでかまわねーから」
「ユエ」
 確かめるように彼の舌先で転がされた自分の名前は、自分の名前だというのに何故か違う人の名前に思えて。
 もっと何か崇高な物の名前のように聞こえて。
 彼が言葉を発するものはその音がまるでビー球のように光って見えた。

「ユエって・・・月のこと・・・・・・?」
 ふいに見つめられた瞳に心が鳴った。
 心の奥を見透かすような色。
 逸らしたいのに吸い寄せられるような感覚。
「・・・よ・・・よく知っているな」
 乾いた喉で声を出すように、絞るように声を出した。
 何故こんなに緊張するのか解らなかった。
「とても綺麗な名前だね」
「お前にも名前がいるな・・・・・・」
「僕・・・・・・」
 ふわりと彼は窓辺を見遣った。
 葉擦れの音がさざめくように聞こえた。
 その横顔があまりにも悲しく見えて、思わずユエはその頭を撫でた。
 それが嬉しかったのか、何故か彼はこちらを向いてやわりと笑んだ。
 その歳の少年には見られないような、無邪気とはいえないどこか冷めて、それでいてとても優しくて。
 全てをもう悟ってしまった者の笑顔だった。
「ユアン・・・」
「え?」
「お前の名前はユアンだ。・・・・・・ダメかな・・・?」
「ううん。綺麗な名前だと思う。ありがとうユエ」
 高く茂った草が夜露の珠を弾くような。
 湖面に水滴を一つだけ落とした音のような。
 蕾が割れるような。
 どこか軽くて、響きが良くて。それでいて大人しい音。
 その時から籠の鳥はユアンとなった。

 

 荷物袋を置いて座り込んだユエの隣にユアンも座った。
 カーテンがふわりと浮かんで床にオレンジの光が入る。
 その色はもうすぐ闇に侵食されていくのだろう。
 そしてユエの名前でもある月が冷たくも優しく光を灯すのだ。
「ねえ」
 言葉がポツリと宙に浮かんだ。
 シャボンの泡に込められたような、壊れそうな音で。
「ねえ。ユエ。僕は本当にここにいてもいいの?」
 自分を見上げる少年の目に影が生まれた。
 まっすぐにこちらを見遣ってはくるのだけれど、どこか遠くを見ているような。
 自分を透かしてその奥のものを見つけようとするような。
 そんな。目。
 自分はこの目がなんとなく嫌いだった。
 自分を自分として見てくれていない目だからだ。
 彼を拾ったのは戯れだとしても、今の自分に彼が必要な事は目に見えて明らかで。
 もし今この少年がいなくなったら自分はどうなってしまうのか。
 それは考えなくても明らかだった。
「勿論だよ。ユアン。そんなの気にすることじゃあない」
 視線を取り戻したくて。
 自分を見て欲しくて。
 ユエは強めにそう云う。
「そう。良かった」
 けれどもどこか納得いかないように視線が空に浮く。
 一定に定まらないそれは更にユエの心をざわつかせた。

 どうしてこんなに惹かれてしまうのか解らない。
 どうしてこんなに離したくないのかも解らない。
 ただ彼のその愁いの中身が気になって。
 儚く感じるその訳が知りたくて。
 夜の湖に浮かぶ蓮のような。
 淡くゆるやかに咲く桃色の花。
 暗い闇に浮かぶ微かな存在感。
 その。
 その先にある。

 夢を知りたくて。

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