月の檻
3

 それからまた幾日かの日々が通り過ぎていった。
 ユエは本当に些細だけれども、少しずつ先へ進んでいき。
 着実に”同盟軍のリーダー”に近づいている。
 それに比べて。
 それに比べて、ユアンは空を仰ぎ嘆息した。
 自分はこの囲いの中で夢を見たまま一歩も先へ進めていない。
 ただの一歩も一センチも。
 こなせる日々の雑用が増える度に後ろを振り向くのが怖くなる。
 ここへ来た時の自分と今の自分と一体どんな違いがあるというのか。

 ユアンはまた息を吐いた。
 と。
 ばさりと大きな音がして、干していた布がはためいた。
 驚いて、布の端を掴み、空を見遣る。
 何かがいた気がした。
 いや、何もなかったのかもしれない。
 けれど何故だか空の色が、あまりにも悲しく見えた。
 誰かが泣いているような気がした。

 空は夕闇に近づいている。
 端からは薄く白い月が少しの顔を覗かせていて。
 また、今日も何も出来ないまま終わっていく事にユアンは息を吐いた。
 もうすぐユエが帰って来るだろう。
 そろそろ全てを家の中に戻して、夕飯の支度をしなければならない。
 布をばさばさと放り込んだ籠を両手一杯に抱えて、ユアンは小走りで戸口へと急ぐ。
 いや別に、何も急ぐ必要なんてなかった。
 どこからも逃げる必要なんてなかったのに。
 あの夕闇が怖かった。
 何故だか、とてつもなく哀しくて。
 痛くて、何かが壊れていく気がした。

 木々が大きくざわめいている。
 嵐が近づいている予兆のように、生ぬるい風が頬の横を擦り抜け、自分の服を翻していく。

 扉を開けようとした時。
 また、感覚が過ぎった。
 誰かの視線を感じた。
 けれどそれは、殺気でも何でもなくて。
 風が草原に形を作る。
 自分の存在を明らかにするように。
 自分の形を明らかにするように。
 けれどユアンは、まるでそれから逃げるように大きく扉を閉めた。
 何もかもを排除するように。

 木の陰でそれを見ていた彼は、溜まっていた息を口腔から吐いた。
 出る言葉はなく、無言でしかない。
 とある人からの情報と、彼が飛ばす負の感情を頼りにここまで来た。
 変わりはなかった。
 いや、それには少し御幣があるだろうか。
 通常との彼とは明らかに変わりはあったが、最期に見た彼とは変わりはなかった。
 もう彼は笑わない。  寂しげに曇ってしまった瞳。
 虚ろに動く小さな唇。
 今にもどこかへ消えてしまいそうだった。
 そしてそれを止められなかった自分。
 彼を止める言葉を渡せなかった自分。
 彼はまた息を吐いた。
 そしてそこからふつり、と消えた。

「どうかしたか?ユアン」
 ユエの言葉で目が醒めたように現実に引き戻された。
「あ・・・何?」
「いや、顔色が悪いから、どうしたんだ・・・?」
「ん・・・何でもないよ。今日は早く寝るね・・・」
 少しだけ笑って、スプーンを置いた。
 カラン、と軽い音がした。
 まるで自分の心のようだ。
 空っぽで何もない。
 何も存在してない。
 感情が欠落している。
 きっと自分は、もうこんな風に笑う事しか出来ない。
 きっと泣く事も出来ない。
 悲しい過去なら空白で良いと思った。
 けれど感情さえもないと。
 まるで自分が出来そこないの人間のように思えて。
 もしかしたら歯車がどこかにあるのかもとさえ思ってしまう。

 翌日。
 天気は悪くないのだが、かなりの強風だった。
 風が世界を覆っている。
 そんな表現がうまく当てはまるほど、外界には風しか存在していないような気がした。
 それでもユエは”こんな日は外に誰もいないから、痕跡を探しやすい”とか言って出て行ってしまった。
 だからユアンは今日も一人。
 ガタガタと窓を鳴らす音を聞きながら、静かに本を読んでいた。
 こんな風に過ごしているとまるで世界に自分しかいないような気がする。
 夕刻になればユエが帰って来て、明らかに一人ではなくなるのだがやはり。
 誰もいない一人の家は、あたりまえだけれど自分しかいなくて。
 とてつもない静寂に際限のない寂しさを感じた。
 いや、けれど。
 この状態を選んだのは、確かに自分だったのだ。

 と。
 コン、と軽くドアが叩かれたような気がした。
 それはこんな静寂でもなければ聞き逃してしまうような。
 けれどユアンは何も気にせず、ただユエが帰って来たのかとドアへ寄った。
 それがもしかしたら失敗だったのかもしれない。
 この平和すぎる日常が生んだ僅かなほつれだったのかもしれない。
 薄く開いた隙間からそれだけでも外の加減が解る程の風が吹き込まれ、ユアンの服や髪がバサバサと持ち上がった。
 と、一緒に風の勢いも手伝って、扉が大きく開かれた。
 ドン、と壁に当たる音がする。
 けれどユアンはそんな音聞いてはいなかった。
 ただ、目の前がなくなったように真っ暗になってしまった。
 目の前に何もなくなってしまうくらい。
 そんな衝撃を受けた。

 茶色い髪が風に吹かれてざわめいていた。
 碧の法衣もバサバサと跳ね上がる。
 瞳がかち合った。
 白い、磁器のような顔。
 赤い唇が言葉を象る。
「マユキ・・・・・・」
 誰の名前か解らなかった。
 彼が誰かも解らなかった。
 だから、思わず飛び出した言葉は。
「誰・・・?」
 彼の白磁の顔が歪んだ。
 それはとても切なそうで深い海の底のようだった。

 解らない。
 何も解らない。
 ただ、彼があまりにも悲しそうで。
 その原因を作っているのが自分だったから。
 ユアンはただ。
 切なく笑った。

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