† | 月の檻 | † |
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ガシャン、と音がして、ユアンは我に還った。 トレイの上にある筈の皿はなく、それは床に欠片として散乱していた。 それを見て息を吐き、顔を曇らせる。 もう何度目なのか。 「大丈夫か?」と、隣の部屋から声が聞こえたので、明るく返事だけ返した。 自分は大丈夫だが、皿は大丈夫ではない。 ここ数日で一体いくつの皿が土へ還ってしまったのか。 思い出すだけで恐ろしい。 棘を刺すのは風に吹かれた茶色の髪。 自分を見つめた寂しい碧の瞳。 そして呼ばれた名前。 ”マユキ” その名前は確か、ユエが探している同盟軍リーダーの名前ではなかったのか。 いやきっと、マユキなんてどこにでもある名前だ。 ありえない可能性で自分がもしマユキだったとしても、そのマユキである確率は更に低い。 ユアンはそう思い込んで被りを振った。 そうだ。 まだ自分がマユキである事も確実ではないのだ。 いや。 自分はユアンなのだ。 ユエが付けてくれた名前がちゃんとある。 ユアン。ユアン。ユアン。 刷り込むように名前だけ唱えた。 まるで自分自身を洗脳するかのように、名前だけ唱えた。 あの大風の日に現われた少年は、寂しげな顔をしてそのまま消えてしまった。 もしかしたらあれは自分の心が生み出した偶像だったのかもしれないと思うのだけれど。 差し出された言葉と渡した言葉は明瞭と覚えていた。 あれからもう十日経つ。 茶色の髪は欠片さえも見えない。 幻想なら幻想でお仕舞いにしてしまいたいのだが、棘はまだ抜けてくれない。 確実にそれは自分の躯の深い所に傷を付けて行ってしまった。 とても小さいのにとても大きな痛みを伴って。 キリリと日を増やすごとに気にかかってくる。 その痛みをリアルに示すかのように、指先が破片で切れた。 ぷくりと血が盛り上がり、小さな筋が流れる。 引っかかれた心もこんな風に血が流れているのだろうか。 痛みに震えて指を口に含むと、薄く鉄の味がした。 ああ。 もう。 どこからも。 消えてしまいたい。 消えてしまいたい。 昔の自分もそんな風に思ったのだろうか。 だから忘れてしまったのだろうか。 忘れてしまったのなら。 思い出さない方が良いのだろうか。 けれどやはり。 忘れてしまえば忘れてしまったで。 自分の後ろが気になるのだ。 ガン、とけたたましい音がして、窓が開いた。 カーテンが千切れそうな程の勢いで靡いている。 綺麗に嵌った四角のガラスが、カタカタと震えていた。 風だ。 何故そんな風に繋がっていったのか。 ユアンは反射的に玄関へ走り出した。 外へ出てはいけないという言葉は、一文字もその頭に残ってはいなかった。 彼がいる。 何故そんな風に繋がっていったのか。 床はひやりとして冷たかった。 けれどそんな事気にもしなかった。 裸足である事も気にならなかった。 彼がいる。 碧の草が揃って首を傾げていた。 太陽は風に流されて、外界はうっすらと曇っていた。 まるで地の底から響くような風の音が聞こえた。 そしてやはり。 彼がいた。 茶色の髪をばさばさと靡かせて。 碧の目をした。 彼がいた。 けれど表情の哀切さは変わりなかった。 倒れそうな自分をそれでも立たせているような気がした。 「…っ」 勢い良く飛び出したものの、何を云えばいいのか解らなくて、ユアンは立ち止まった。 相手の名前さえも知らない。思い出せない。 一気に全てが萎んだ気がした。 そしてそのまま足は、鉛を履いたように動かない。 沈黙。 いや。ただ、風の音だけが二人の間を流れる。 「……もう」 掻き消えそうな程小さく、彼が呟いた。 「……もう、君に会わない方が良かったのかな」 けれど、駄目だったんだ。 駄目だったんだ。 飲み込まれた言葉はユアンに届かず躯の奥深くに消えた。 「お前誰だ」 後ろの戸口から声がした。 振り向くとユエがいた。 じ、っとただ。真っ直ぐに彼を見ていた。 少し怒気の混じった目で。 ユエの言葉に彼は逡巡しているようだ。 何を云って良いものか。名前で云って良いものか。 それはユアンの思考の枠でしかないけれど。 「ルック」 けれど彼は冷たく言い放った。 まるでいらない言葉のように、言い捨てた。 ユエは怖かった。 眼前の人形のような造型の彼が。 髪も、肌も、手足も全て人間のそれであるのに、全部繋がってしまうとまるで。 作り物のように感じる。 それは硝子のような瞳のせいだろうか。 それとも抜けるように白い肌の色のせいだろうか。 そして、ユアンを知っている事だろうか。 いつかこんな日が来る事に気付いていたのは本当だけれど。 出来ればそんな日は来て欲しくなかった。 出来ればそんな日はずっと未来に置いてきてしまいたかった。 自分からユアンを連れて行く存在を。 ユアンの過去を知る存在を。 出来ればずっと未来の自分のいない先に置いてきてしまいたかった。 閉じ込めてしまいたかった。 この腕の中に。 閉じ込めてしまいたかった。 その翳りを含んだ瞳も。長い睫も。 全てを拒絶しているのに、全てを受け入れてしまうような感覚も。 その、雰囲気も。 そして彼自身も。 永遠にこの檻の中に入れてしまいたかったのに。 鍵を持っているのは自分ではなかった。 何時の間にかすりかわってしまっていた。 何時の間にか奪われてしまっていた。 |
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