† | 月の檻 | † |
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ふいに手に入れたその名前をユアンは心中で反芻した。 ルック。 ルック。 しかし、やはり思い出す色はない。 心の奥にその綺麗な名前を届けても開く蓋はない。 鍵はまだ見付からない。 鳥はまだ冷たい格子の中だ。 けれどただ。 ただ、その名前が碧の彼にとても似合うな、とだけ思った。 「何しに来た」 「・・・・・・・・・彼に会いに来た・・・」 「それだけか」 言い出せない言葉が彼の口の中で迷っているようだった。 吐き出せない息と共に、そのまま飲み込まれてしまう事を、ユエは祈った。 会いに来ただけならそれでいい。 連れて行かれないならそれでいい。 まだ扉は開かない。 まだ鍵は見付かっていない。 けれど。 「彼がここで幸せなら」 何も言う事の出来ない顔だった。 限りなく大切なのだと思った。 ユアンを手放す切なさや哀しみを全て隠して、それでも笑う。 ユアンの幸せを願って微笑う。 それは何て形容しがたい顔なのだろう。 ルックにとってユアンは一体どんなものなのか。 「皆君を心配しているけれど・・・・・・君はここにいて幸せ?」 言葉にユアンはドキリとした。 心配している人。 そんな人が存在している事に、胸が鳴った。 自分がここに辿り着いてもう何ヶ月か。 ずっと籠に入ったままで何かを見つけることもなく。 いや、何かを見つけようという気もなく。 そんな人たちがいることに気付かないフリをしていた。 いやむしろ。いないと信じたかった。 ここは甘い月の檻。 ずっとここから出たくなくなるような。 ふわふわな砂糖菓子のような。 痛みも、苦しさもなにもなくて。 ただ、自分が存在すればいいだけの。 月の檻。 質問に頷く事が出来なくてただ、ユアンはルックを見つめた。 その間も風が遠くへ流れていく。 日差しは少しづつ傾いていき、それでも草は未だ首を傾げたままだ。 今日の風は凪ぐ事を知らない。 まるで自分の心中を察するかのように。 幸せかと聞かれれば、それは幸せである事限りない。 ここはとてつもなく居心地がよくて、あまりにも甘くて。 ずっとここで眠ってしまいたいと錯覚してしまう。 けれど、それでも痛みは引いてはくれない。 刺す棘は少しも抜けてくれない。 ぬるい湯に躯ごと鎮められているようだ。 けれどただ一つ聞きたい事があった。 そうではないかもしれないと思いつつ、それでも孔を空けた言葉。 よくある名前だと一蹴したいくらいの脅威の言葉。 「・・・・・・。僕の名前は・・・・・・?」 「マユキ」 逡巡の欠片さえもなく、ルックは答えた。 ただ短くその名前だけ答えた。 ユエが隣で動くのが理解った。 「マユキ・・・・・・」 口腔で転がすように呟く名前がそれでも。 自分のものとは思えない。 「・・・それは都市同盟のリーダーの名前か」 喉が鳴った。 そうでない事を限りなく祈った。 ユエもユアンも、そうでない事を願った。 そしてルックも。 そうしてあげたいと思った。 けれど現実はそんな風にはならなくて。 硝子は音を立てて割れてしまうし。 真実は結局は思い通りにはいかない。 「そうだよ」 一気に風が冷たくなった気がした。 一気に日が沈んでしまった気がした。 闇が向こうの山から侵食してきたかのように。 辺りが暗闇になってしまった気がした。 同盟軍のリーダーがまだ少年だという事を知っていた筈だった。 ジル=ブライトと結婚したジョウイ=アトレイドと同い年くらいなのも知っていた筈だった。 何故おかしいと思わなかったのか。 倒れている彼を見つけて。 「マユキ」が行方不明である事を知っていて。 時期が一致している事を・・・気付かなかったといえば嘘になる。 いや、気付きたくなかったのだ。 気付きそうになる所で、その思考を彼岸の淵に追いやっていたのだ。 ありえない事だと。 そんな筈はないと。 ただ、信じていたかった。 「戦争の後君はジョウイ=アトレイドに会いに行くと言って出て行った。それきり、還って来ない」 言葉が光ったように、ユアンは思った。 ざわざわする。 言葉の光に当てられた心が波立つようにざわざわして治まらない。 棘が更に刺さる。 ジョウイ。ジョウイ。ジョウイ。 鍵を壊すかのように、棘が深く沈みこまれていく。 ジョウイ。光の名前。光の髪。光の眼。 『約束を覚えていてくれたんだね、マユキ』 『どうして向かってこない?』 『力を使いすぎたんだ』 『「君は生きて』 ジョウイの伏せられた長い睫がやわりと風に靡いた。 そんな小さな所さえも、風に対しては揺れるのだな、とぼんやりと思った。 堅い岩の上で横たわる彼は何故だか崇高で。けれどその崇高さが傷を却って汚して見せた。 長い髪も風に揺れた。 もう動かないそれは、人間ではなくなってしまったのか。 もう動かない固体は、モノでしかないのか。 自ら動く事の出来ないモノは、物体であるしかないのか。 『君は生きて』 『君は生きて』 『君は生きて』 「・・・あ・・・っあっ・・・・・・ジョウ・・・イっ」 カタカタと躯が震えるのを止める事が出来なかった。 まるで自分のそれではないように、外から誰かに揺らされているように。 「マユキ」 異常に気付いたルックが背中を抱いても、震えは止まりはしなかった。 鍵が開いても素敵なものは何もなかった。 出てきたのは血と、屍ともう開かない瞳と。 自虐とか後悔とか、そんな欲しいとも思わない感情。 綺麗なものは何もなかった。 上澄みを掬って見たら、ただジョウイの顔が見えた。 その奥には何もない。 ただ。 彼の最期の顔だけが見えた。 |
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