月の檻
5

 ふいに手に入れたその名前をユアンは心中で反芻した。
 ルック。
 ルック。
 しかし、やはり思い出す色はない。
 心の奥にその綺麗な名前を届けても開く蓋はない。
 鍵はまだ見付からない。
 鳥はまだ冷たい格子の中だ。
 けれどただ。
 ただ、その名前が碧の彼にとても似合うな、とだけ思った。

「何しに来た」
「・・・・・・・・・彼に会いに来た・・・」
「それだけか」
 言い出せない言葉が彼の口の中で迷っているようだった。
 吐き出せない息と共に、そのまま飲み込まれてしまう事を、ユエは祈った。
 会いに来ただけならそれでいい。
 連れて行かれないならそれでいい。
 まだ扉は開かない。
 まだ鍵は見付かっていない。
 けれど。
「彼がここで幸せなら」
 何も言う事の出来ない顔だった。
 限りなく大切なのだと思った。
 ユアンを手放す切なさや哀しみを全て隠して、それでも笑う。
 ユアンの幸せを願って微笑う。
 それは何て形容しがたい顔なのだろう。

 ルックにとってユアンは一体どんなものなのか。

「皆君を心配しているけれど・・・・・・君はここにいて幸せ?」
 言葉にユアンはドキリとした。
 心配している人。
 そんな人が存在している事に、胸が鳴った。
 自分がここに辿り着いてもう何ヶ月か。
 ずっと籠に入ったままで何かを見つけることもなく。
 いや、何かを見つけようという気もなく。
 そんな人たちがいることに気付かないフリをしていた。
 いやむしろ。いないと信じたかった。

 ここは甘い月の檻。
 ずっとここから出たくなくなるような。
 ふわふわな砂糖菓子のような。
 痛みも、苦しさもなにもなくて。
 ただ、自分が存在すればいいだけの。
 月の檻。

 質問に頷く事が出来なくてただ、ユアンはルックを見つめた。
 その間も風が遠くへ流れていく。
 日差しは少しづつ傾いていき、それでも草は未だ首を傾げたままだ。
 今日の風は凪ぐ事を知らない。
 まるで自分の心中を察するかのように。
 幸せかと聞かれれば、それは幸せである事限りない。
 ここはとてつもなく居心地がよくて、あまりにも甘くて。
 ずっとここで眠ってしまいたいと錯覚してしまう。
 けれど、それでも痛みは引いてはくれない。
 刺す棘は少しも抜けてくれない。
 ぬるい湯に躯ごと鎮められているようだ。

 けれどただ一つ聞きたい事があった。
 そうではないかもしれないと思いつつ、それでも孔を空けた言葉。
 よくある名前だと一蹴したいくらいの脅威の言葉。
「・・・・・・。僕の名前は・・・・・・?」
「マユキ」
 逡巡の欠片さえもなく、ルックは答えた。
 ただ短くその名前だけ答えた。
 ユエが隣で動くのが理解った。
「マユキ・・・・・・」
 口腔で転がすように呟く名前がそれでも。
 自分のものとは思えない。
「・・・それは都市同盟のリーダーの名前か」
 喉が鳴った。
 そうでない事を限りなく祈った。
 ユエもユアンも、そうでない事を願った。
 そしてルックも。
 そうしてあげたいと思った。

 けれど現実はそんな風にはならなくて。
 硝子は音を立てて割れてしまうし。
 真実は結局は思い通りにはいかない。
「そうだよ」
 一気に風が冷たくなった気がした。
 一気に日が沈んでしまった気がした。
 闇が向こうの山から侵食してきたかのように。
 辺りが暗闇になってしまった気がした。

 同盟軍のリーダーがまだ少年だという事を知っていた筈だった。
 ジル=ブライトと結婚したジョウイ=アトレイドと同い年くらいなのも知っていた筈だった。
 何故おかしいと思わなかったのか。
 倒れている彼を見つけて。
 「マユキ」が行方不明である事を知っていて。
 時期が一致している事を・・・気付かなかったといえば嘘になる。
 いや、気付きたくなかったのだ。
 気付きそうになる所で、その思考を彼岸の淵に追いやっていたのだ。
 ありえない事だと。
 そんな筈はないと。
 ただ、信じていたかった。

「戦争の後君はジョウイ=アトレイドに会いに行くと言って出て行った。それきり、還って来ない」
 言葉が光ったように、ユアンは思った。
 ざわざわする。
 言葉の光に当てられた心が波立つようにざわざわして治まらない。
 棘が更に刺さる。
 ジョウイ。ジョウイ。ジョウイ。
 鍵を壊すかのように、棘が深く沈みこまれていく。
 ジョウイ。光の名前。光の髪。光の眼。

『約束を覚えていてくれたんだね、マユキ』

『どうして向かってこない?』

『力を使いすぎたんだ』

『「君は生きて』


 ジョウイの伏せられた長い睫がやわりと風に靡いた。
 そんな小さな所さえも、風に対しては揺れるのだな、とぼんやりと思った。
 堅い岩の上で横たわる彼は何故だか崇高で。けれどその崇高さが傷を却って汚して見せた。
 長い髪も風に揺れた。
 もう動かないそれは、人間ではなくなってしまったのか。
 もう動かない固体は、モノでしかないのか。
 自ら動く事の出来ないモノは、物体であるしかないのか。

『君は生きて』
『君は生きて』
『君は生きて』


「・・・あ・・・っあっ・・・・・・ジョウ・・・イっ」
 カタカタと躯が震えるのを止める事が出来なかった。
 まるで自分のそれではないように、外から誰かに揺らされているように。
「マユキ」
 異常に気付いたルックが背中を抱いても、震えは止まりはしなかった。

 鍵が開いても素敵なものは何もなかった。
 出てきたのは血と、屍ともう開かない瞳と。
 自虐とか後悔とか、そんな欲しいとも思わない感情。
 綺麗なものは何もなかった。

 上澄みを掬って見たら、ただジョウイの顔が見えた。
 その奥には何もない。
 ただ。
 彼の最期の顔だけが見えた。


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